第九十八話「テスト週間④」
差し出されたのは、蒼奈が余白にさらさらと書き込んだ一題の方程式だった。
x^2 + 4x + 13 = 0
「……制限時間30秒、か。お前が提示した『解の公式』と『虚数の定義』を適用すれば、論理的に導き出せないはずがない」
そう口では言いながらも、掌にはじっとりと嫌な汗が滲んでいた。隣で蒼奈がストップウォッチを起動させる。チッチッチッ、と静寂の図書館に刻まれる秒針の音が、春馬の焦燥を煽る。彼は震える指先を制し、シャープペンシルを叩きつけるように動かし始めた。
まず判別式 D を頭の中で展開する。
4^2 - 4・ 1・13 = 16 - 52 = -36
マイナスだ。昨日までの俺なら、ここで思考を停止させ「解なし」という安易な逃げ道を選んでいただろう。だが、今の俺の脳内には、若宮蒼奈が強制的にインストールした「i」という拡張プラグインが存在する。
√-36は、 6i。
「(公式に代入しろ。迷うな、計算精度を維持せよ……!)」
-4 ± √-36
x = -----------
2
分母と分子を「2」で割る。ごく単純な算数のはずが、彼女の視線というプレッシャーが加わるだけで、数式の処理に異常な負荷がかかる。だが、その負荷さえも、今は心地よい加速装置のように感じられた。
x = -2± 3i
「……終わった。」
解答を書き終えた春馬が、逃げるようにペンを置く。蒼奈は即座にストップウォッチを止め、春馬のノートを覗き込んだ。至近距離から漂う、彼女の微かな香りが春馬の思考を再び散らそうとするが、彼は必死に「研究者」としての理性を保つ。
「正解! 21秒!さすが春馬くん、飲み込みが早いね。……ねえ、解いてみてどうだった? 『解なし』で終わらせてた昨日までの景色と、ちょっと違って見えない?」
「……不本意ながら、世界の解像度が一段階上がったと言わざるを得ない。解が存在しないという『無』の領域が、虚数という概念によって埋め尽くされる感覚は、充足感に近い」
春馬は自分の書いた -2± 3i という解を見つめた。それはただの数字の羅列ではなく、彼が他者の助けを借りて、初めて「自力では到達できなかった真理」に触れた証だった。
「その調子だよ! じゃあ次は、この解を使って『解と係数の関係』の逆算をやってみようか。この -2+3i と -2-3i を足した時と掛けた時、さっきの方程式の係数に戻るかどうか。……これを確認するまでが、一セットの『解剖』だからね」
蒼奈はそう言って、さらに難易度を上げた応用問題へと春馬を導いていく。
「(……信じられない。俺は今、朝の図書館で、女子に勉強を教わりながら、あろうことか『数学を楽しんでいる』というのか?)」
春馬は、自分の内側で「効率」や「損得」とは全く別の軸で、何かが静かに熱を帯びていくのを感じていた。それは、彼が「不確実な楽しさ」と呼んで遠ざけていたものの正体だったのかもしれない。
「さあ、春馬くん。次は『解の和と積』のパズルだよ。この数式を解いてみて!」
蒼奈の挑戦的な笑みを受け、春馬は再び、今度はより確かな足取りで、数式の海へと飛び込んでいった。




