第九十五話「テスト週間①」
図書館の重い扉を押し開けた瞬間、春馬の鼻腔をくすぐったのは、古い紙の匂いと、張り詰めたような独特の静寂、そして……数十人分の「集中力」が発する熱気だった。
「(……何だ、この人数は。まだ始業までかなりの猶予があるはずだ。それなのに、閲覧席の稼働率が50%を超えているだと? ……この学園の生徒は、朝からこれほどまでに能動的に学習リソースを消費しているのか?)」
春馬にとって、学校とは「義務的に滞在する場所」であり、自発的に、かつ早朝から知識を詰め込む場所ではなかった。自分の知らない「学園の裏側」を見せつけられたような衝撃が、彼の胸を突く。
「春馬くん! こっちこっち!」
窓際の、朝日が最も綺麗に差し込む席から、小さく振られる手があった。そこには既に、数冊の参考書とノートを広げ、完璧な布陣を敷いている蒼奈がいた。
春馬は周囲の視線を避けるように、足早に彼女の向かいの席に座った。
「……若宮。随分と早い到着だな。……それにしても、驚いた。テスト前とはいえ、これほど多くの個体が朝から自己研鑽に励んでいるとはな。意外と、みんな勉強しているんだな」
春馬は、どこか他人事のように、ペンを動かす周囲の生徒たちを見渡した。
蒼奈は、開いていた問題集から顔を上げ、春馬をじっと見つめた。その瞳には、親愛の情と、それ以上の「呆れ」が混ざっていた。
「……あはは、春馬くん。何言ってるの? そういう人は多いよ。……っていうか、これが普通なんだよ?」
「普通、だと? 統計的に見て、この時間帯に登校している層は一部の特異点(ガリ勉)だと思っていたが」
「ううん。本当に勉強しないのは、春馬くんみたいに、『平均点ギリギリなのに、なぜか余裕そうに無関心を装っている人』くらいだよ。みんな、自分には『空白』があるって分かってるから、こうやって必死に埋めようとしてるんだよ?」
「…………っ!!」
蒼奈の言葉は、春馬が昨日まで大事に抱えていた「俺はあえてやらないだけだ」という傲慢なバリアを、跡形もなく粉砕した。
「春馬くんは今まで、自分の論理の殻に閉じこもって、周りの頑張りも、自分の立ち位置も、ちゃんと見てなかっただけでしょ? ……ほら、感心してないで、さっさとノート広げて。今日は数学の『空白』から埋めていくよ!」
「(……ぐうの音も出ない。俺が『効率』や『最適』を語っている間に、周りの連中は愚直に、かつ着実に、俺が持っていない『基礎』を積み上げていたというのか。……若宮の言う通りだ。俺の余裕は、単なる『無知』からくる慢心に過ぎなかった……)」
春馬は、逃げ道を塞がれた敗北者のように、無言で鞄からノートを取り出した。
隣でペンを走らせる蒼奈の横顔は、もはや「誘惑」ではなく、自分を引き上げるための「道標」に見えていた。
「……分かった。……若宮。……いや、……教えてくれ。」
「若宮先生」とは呼ばなかったが、春馬の言葉には、かつてない謙虚な「渇望」が宿っていた。朝の図書館。二人の、本当の戦いがここから始まる。




