第九十二話「近づく第一期末テスト⑬」
感動的な余韻が教室に漂う中、蒼奈はふと壁の時計を見上げた。下校を促す放送が校内に流れ始め、オレンジ色の夕日はすでに紫色の夜に飲み込まれようとしている。
「あ、もうこんな時間! ……今日はもう下校時間も近いから、本格的なテスト勉強は明日からにしようか」
「……妥当な判断だ。これ以上の活動は学校の管理規定に抵触する恐れがある。リソースの確保は明日以降に行うのが論理的だ」
「うん。……じゃあ、朝の始業前と、放課後。場所は図書館でどうかな? あそこなら静かだし、資料も揃ってるから『若宮先生』の授業にはぴったりだよ!」
蒼奈は鞄を肩にかけ、立ち去り際に春馬をじっと見つめて、釘を刺すように人差し指を立てた。
「あ、そうだ。春馬くん、夜更かししたり、寝坊したりしないでよ? ちゃんと体調管理も勉強のうちなんだからね」
「…………っ!?」
春馬の心臓が、一瞬大きく跳ねた。彼は深夜、SNSでの論戦に没頭し、明け方近くまでキーボードを叩いていることが多い。それは彼にとって「唯一の存在意義」を確認する秘密の聖域だ。
「(……なぜだ。なぜ俺が夜、非生産的な時間外活動に従事していることをこの女は察知している? 自宅に監視カメラでも設置されているのか……!?)……若宮、君が、なぜ俺が夜更かしをしていると断定できる? 根拠を示せ」
蒼奈はクスクスと笑い、春馬の顔のすぐ近くまで顔を寄せた。
「根拠? ……ふふっ、春馬くん、自分の顔鏡で見てる? 毎朝、すっごく眠そうにしてる日があるし、目の下のクマがひどい時があるんだもん。 私、言ったでしょ? この学園で一番、春馬くんのことを見てるって」
「(……身体的反応から推測されたというのか。……俺の『凪』の表情は、そんなにも脆弱なものだったのか。……いや、この女の観察眼が、俺の防壁を透過しているだけか)」
春馬はバツが悪そうに視線を逸らした。
蒼奈の「見てるよ」という言葉は、かつてなら監視のような不快感を与えたはずだった。しかし今の春馬にとっては、それは「放っておかれない」という奇妙な安心感として響いていた。
「……ふん。不本意ながら、君の指摘には一定の客観的事実が含まれていることを認めざるを得ない。……生活リズムの修正は、学習効率向上のための必須項目としてタスクに組み込もう」
「あはは、その言い方! ……じゃあ、明日、図書館で待ってるね、春馬くん!」
春馬は、校門へと向かう蒼奈の背中を見つめ、小さく、しかし確かな声で言葉を贈った。
「……ああ。明日から、頼む。」
その言葉は、春馬が人生で初めて、心からの「信頼」を他者に預けた瞬間だった。
明日からの図書館。そこは、平均点死守を掲げる「研究者」と、全教科100点の「先生」による、世界で一番非効率で、世界で一番熱い、期末テスト編の主戦場となる。
「(……明日か。……悪くない。……『若宮 蒼奈』という予測不能な変数に、俺の未来を少しだけ委ねてみるのも……論理的な……博打だ)」




