第九十一話「近づく第一期末テスト⑫」
10分。その短くも永い深淵を経て、春馬はゆっくりと立ち上がった。
膝はまだ少し震え、指先は冷たい。だが、その瞳は真っ直ぐに、隣で待っていた少女を射抜いていた。
「……若宮。……俺に、勉強を教えてくれ。今の俺の知識量では、この期末テストという不条理なシステムを……生存し抜くことは不可能だ」
絞り出した声。それは、彼が「独力での完結」というプライドを捨て、最も恐れていた「他者への依存」を選択した、歴史的な敗北宣言であり、勝利の産声だった。
「……うん! もちろん。喜んで!」
蒼奈は、まるで春馬が「全教科満点」を取ったかのように、今日一番の輝く笑顔で承諾した。
蒼奈は教科書を閉じると、少しだけ春馬の方へ椅子を寄せた。
「ねえ春馬くん。私、ちょっと感動しちゃったから、今だけ私の話を聞いてくれるかな?」
「……聞こう。……余談としては、時間が許す限りだ」
「ふふっ。……あのね、私には春馬くんのことは分からないよ。春馬くんが裏切りに強いトラウマを持っていて、それが原因で人を遠ざけてるってことは知ってる。でも、具体的に何があったのか、どれだけ痛かったのか、私は春馬くんじゃないから、本当の意味で理解することはできない」
春馬は沈黙した。安易に「分かるよ」と言わない彼女の言葉は、冷たいようでいて、何よりも春馬の痛みを尊重していた。
「でもね、春馬くんは変わったよ! ……あ、勘違いしないでね? 今、この瞬間に魔法みたいに変わったって言ってるんじゃないよ」
「……どういうことだ。俺は今も、不信感に苛まれている。マイナスのままだ」
「ううん、違うよ。今まで私が話しかけたり、無茶な誘いをしたり、映画に行ったり、共同研究しよう!って言ったり……春馬くんは文句を言いながらも、結局は受け入れてきてくれたよね。その時点で、少しずつ、少しずつ変わってきてたんだよ。
世の中の人は、大きな決断をしたり、失敗を恐れずに前に進んだ時だけを『勇気がある』とか『変われた』って言うけど……私はそうは思わない」
蒼奈は真っ直ぐに、春馬の瞳の奥を見つめる。
「向き合ったり、悩んだりしている……その時点で、もう変わってるんだよ。変化は、勇気を出した結果にあるんじゃなくて、葛藤している最中にこそ起きているの。……だから、自分が『勇気を持って行動した結果』だけが変化じゃないんだよ、春馬くん」
春馬は、自分の内側で「マイナス」だと思っていた葛藤そのものが、肯定されている事実に衝撃を受けていた。
「……なぜ、そう言い切れる。君は俺ではないと言ったはずだよな。」
「ふふっ。春馬くんのことは分からないって言ったけど、どうして言い切れるのかって思ったでしょ?」
蒼奈は悪戯っぽく、でもどこか誇らしげに胸を張った。
「それはね――私がこの学園の中で、一番近くで、一番長く、春馬くんのことを見てるからだよ!」
春馬の言葉が、詰まった。
全教科100点の知性。学園のマドンナとしての観察眼。その全てが、今、自分という一人の歪んだ少年を「肯定」するために注がれている。
「見てくれている」という事実が、どんな論理よりも強く、春馬の閉ざした心の鍵を溶かしていく。
「(……完敗だ。俺は、自分自身の変化にすら気づけなかったというのに……。……若宮蒼奈。お前という観測者がいる限り、俺は俺という絶望の中に、留まり続けることすら許されないらしい……)」
春馬は、少しだけ照れ隠しにを下を向いた。
「変化」は、既に始まっていた。
夕暮れの教室で、二人の「共同研究」は、かつてないほど確かな絆を伴って、真の幕を開けたのだ。
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