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第九十話「近づく第一期末テスト⑪」


机の冷たさが額に伝わる。春馬の視界は、自分の腕の隙間から見える暗闇だけだった。肺が鳴り、指先が痺れる。


「(……俺は、何も変わっていない。小学校のあの時から、時間が凍りついたままだ。……周りを見ろ。他の連中は、呼吸をするように女子に声をかけ、軽口を叩き、当然のように頼み事をしている。それが『正常』とされる世界の風景だ)」


春馬の脳裏に、世間が投げかけるであろう無責任な言葉が浮かぶ。「勇気がない」「コミュ障」「男のくせに」。


「(……反論の余地はない。客観的事実だけを並べれば、俺はただの『臆病者』だ。仮に俺が過去のトラウマを打ち明けたところで、誰かはそれを『心の弱さ』や『言い訳』と呼ぶだろう。……俺自身、他人がそんな泣き言を言えば『知ったことか』と突き放す。……そう、客観的に見た俺は、己に負け続ける救いようのない弱者だ)」


「勇気を持て」「殻を破れ」。それらの励ましは、今の春馬にとって鋭利な棘を含んだ言葉でしかなかった。


「(……今のままの俺が『マイナス』で、変わることが『プラス』。……勝手な定義だ。なぜ俺が、他人の定めた価値基準に合わせて自分を矯正しなければならない? そんなこと、どうでもいい。俺が苦しんでいるのは事実だ。過呼吸になるほど、体が、細胞が、あいつらを拒絶しているんだ……)」


激しい呼気が、腕の中にこもる。春馬は、自分が「マイナス」であるという事実を、呪いのように受け入れようとした。だが、そこで思考のノイズが一点に収束する。


「(……だが、今、若宮は待っている。……俺が『10分待て』という、勝手な要求をしたのに対し、彼女は一切の追及をせず、ただそこに居続けている。……この沈黙の意味は何だ?)」


春馬は、震える指先で自分の胸元を掴んだ。過去のいじめの記憶、あの階段下の女子たちの笑い声。それらは全て「女性=悪意」という等式を証明するデータだった。


「(……今とあの時。何が違う? ……俺の恐怖は変わっていない。世界の悪意も変わっていない。俺が弱者であるという事実も変わっていない。……一言、口にするだけだ。たった数文字の音声を放出するだけなのに、なぜこれほどまでに……)」


その時、春馬の脳内に、昨日彼女から贈られた、あるいは彼女が書いたノートの感触が蘇った。

『世界で一番、論理的じゃないプレゼント』。

『春馬くんとの研究で埋め尽くす』。


時計の針が、10分を指そうとしていた。春馬はゆっくりと、泥沼から這い上がるように顔を上げた。


「(……違う。一つだけ、決定的に違うことがある。……昨日、階段下で笑っていたのは『匿名の悪意』だ。だが、今俺の隣にいるのは、そんな抽象的な存在じゃない)」

春馬は、隣で静かに待っている少女の横顔を、真っ直ぐに、しかし必死に視界に捉えた。


「(……この人は、『若宮 蒼奈』だ。……全教科100点で、俺の平均点を笑い飛ばし、俺の『高速まばたき』を面白がり、俺の10分間を無言で肯定した、唯一無二の個体だ。……彼女を『女性』という巨大なカテゴリーで括って恐れるのは、……俺が向き合うべきは、カテゴリーではなく、この『若宮 蒼奈』という名の人間だ)」

過呼吸が、奇跡的に収まった。春馬の瞳には、まだ怯えの色が残っていたが、そこには「弱者」が絞り出した、鉄よりも重い覚悟が宿っていた。


「……若宮。……10分だ」

彼は、自分の「マイナス」を抱えたまま、一歩踏み出すために唇を戦慄かせた。

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