第八十七話「近づく第1期末テスト⑧」
一限目、数学の授業。春馬は昨日の「悪意の観測」以来、心に幾重もの鍵をかけ、余計な思考を一切放棄していた。若宮蒼奈という巨大な変数も、補習という名の強制労働への恐怖も、今の彼には遠い世界の出来事だった。
「(余計な演算は全て排除した。感情の揺らぎは皆無。脳のリソースは100%、目の前の黒板と教師の音声だけに割り当てられている。……これほどまでに『純粋』に授業を受けられるのは、入学以来初めてかもしれない)」
春馬は、鏡のように平坦な心で、淡々と黒板の文字を網膜に焼き付けていく。
しかし、数分が経過した頃。春馬の脳内で、致命的な「警告アラート」が鳴り響き始めた。
「(……待て。今、教師が口にした数式……。それを解くための前提となる前回の単元……その定義が、脳内のデータベースから検索できない。……いや、前回の単元だけではない。その前の、さらにその前の基礎概念すらも、霧がかかったように不鮮明だ)」
彼は、自分のノートを必死に遡った。だが、そこに記されているのは、かつて「平均点さえ取れればいい」と、魂を込めずに書き殴った無機質な記号の羅列に過ぎなかった。
「(……理解できない。遮断してノイズを消したはずなのに、内容が一切頭に入ってこない。……正確には、『知識のネットワーク』が寸断されている。これまでの俺は、その場しのぎの論理で平均点という綱渡りをしてきたに過ぎなかったのか……!?)」
教師がチョークを置く音が、静まり返った室内に銃声のように響く。
「――以上の公式を使って、次の小テストを行う」
配布されるプリント。春馬はそれを手に取り、愕然とした。並んでいる問題が、まるで見知らぬ外国語の羅列のように見える。
「(……絶望的だ。このままでは平均点どころか、欠点(赤点)……すなわち、社会保障のセーフティネットすら機能しない『完全なる落第』が現実味を帯びてくる。……俺が昨日まで必死に守ろうとしていた『平均点』という砦は、実は最初から土台が腐っていたというのか)」
冷や汗が、春馬の頬を伝う。かつてない知的な敗北感が、彼の「無」の境地を内側から食い破り始めた。
隣では、蒼奈が迷いのない手つきでスラスラと解答を埋めている。そのペンの音さえも、今の春馬には「お前の論理は破綻している」と告げるカウントダウンのように聞こえた。
「(……春馬くん。ペン、止まってるね)」
蒼奈は何も言わず、ただ自分の課題に集中している。しかし、彼女が昨日提示した「全教科100点」という事実が、今の春馬の無知をこれ以上ないほど残酷に照らし出していた。
「(……独りでは、辿り着けない。……俺がどれだけ世界を拒絶し、孤独な城壁を築こうとも、この『無知』という名の監獄からは、俺一人の力では脱出不可能だ。……平均点すら守れない俺に、一体何の論理が残るというのだ……!)」
春馬は真っ白な解答欄を前に、己の無力さを骨の髄まで噛み締めていた。
「凪」という仮初めの平和は、学力不足というあまりにも即物的な現実によって、無残にも打ち砕かれようとしていた。




