第八十六話「近づく第1期末テスト⑦」
翌朝。春馬の登校ルーチンは、かつてないほど「機械的」だった。
鏡に映る自分の顔に表情がないことを確認し、彼は昨日拾った「悪意」の断片を、強固な論理の金庫に封じ込めた。
「(感情パルス、検知不能。他者への期待値、ゼロに設定。……これでいい。昨日のような『一時的なバグ(迷い)』は修復された。俺は再び、誰にも干渉されず、誰をも干渉しない孤独な演算機へと回帰したのだ)」
校門をくぐり、教室のドアを開ける。朝の光が差し込む教室は昨日と同じはずなのに、春馬の視界には、色彩を失ったグレーの風景が広がっていた。
自席に座る。隣には、いつも通り蒼奈がいた。
彼女は春馬が座った瞬間にその存在を察知したが、今日、彼女はいつものような「おはよう、春馬くん!」という弾けるような攻撃(挨拶)を繰り出してはこなかった。
春馬は鞄から淡々と教材を取り出し、机の上に並べる。その一連の動作には、隣に座る少女を意識した形跡が、1ミリも、1ピクセルも存在しなかった。
「(……完璧だ。俺と彼女の間に、かつて存在したはずの『不確実な楽しさ』という名のノイズは完全に消去された。今、俺たちは単に、座標上で隣り合っているだけの無機質な物体同士だ)」
長い沈黙が流れた。授業が始まる数分前、蒼奈は教科書を見つめたまま、静かに、しかし春馬の耳の奥に確実に届く声で口を開いた。
それは「何があったの?」という追及でも、「元気出して」という慰めでもなかった。
「……ねえ、春馬くん。今の雰囲気、なんだか懐かしいね」
「…………何の話だ」
「席替えして、初めて隣になった時のこと。あの時の春馬くんの雰囲気に、すっごくよく似てる。……私を『人』として見てなくて、ただの『邪魔な障害物』か何かだと思おうとしてた、あの頃の冷たさ」
春馬のペンを動かす手が、一瞬だけ、本当に一瞬だけ止まった。
蒼奈は春馬の方を見ようとはせず、ただ窓の外を眺めながら続けた。
「何かあったんだろうなっていうのは、なんとなくわかるよ。でも、聞かないでおくね。春馬くんがそうやって一生懸命に自分を『リセット』して、壁を作って守ろうとするのは、それが一番安心できるからなんだろうし」
「(核心への近接を確認。……なぜだ。なぜこの女は、俺が必死に構築した『最新の防壁』を、出会った当初の『古い記憶』と照合して、一瞬で定義づけてしまうのだ……)」
「でも……一つだけ。あの時と違うのはね。今の春馬くん、あの時よりもずっと、『無理してる』ように見えるよ」
そう言って、蒼奈はふっと小さく笑った。そこには、春馬の「拒絶」を拒絶しない、圧倒的な受容があった。
「(……何も起きていない。俺はただ、最適化された日常に戻っただけだ。……そう自分に言い聞かせても、彼女が放った『あの頃に似ている』という言葉が、俺の胸の奥で、剥がれかけたシールのようにもどかしく残り続ける。……若宮蒼奈。お前は本当に、俺が最も触れられたくない『論理の綻び』を見つけるのが……うますぎる)」
春馬は何も答えず、ただ教科書の文字を目で追い続けた。
二人の間には、確かに「最初の頃」のような分厚い壁が復活していた。しかし、蒼奈がその壁の存在を知った上で隣に居続けているという事実が、春馬の「完全な孤独」を、静かに、そして確実に阻害していた。




