第八十四話「近づく第1期末テスト⑤」
階段下で浴びた「純粋な悪意」という名の毒が、春馬の血管を巡り、脳の報酬系を完全に麻痺させていた。教室のドアを開けると、そこには相変わらず、窓外の光を反射して輝く蒼奈の姿があった。
先ほどまでなら「眩しい」と感じていたその光が、今の春馬には獲物を誘い出す「誘蛾灯」の冷たい燐光にしか見えない。
「(……心拍数は安定。だが、それは平穏ではなく、生存本能による『死んだふり』に近い凍結状態だ。……若宮蒼奈。お前の笑顔、お前の100点、お前の提案。それら全てが、あの階段下で語られていた『ゲーム』のテンプレートと一致する可能性を、俺は排除できない)」
春馬が自席に座ると、蒼奈はすぐに小鳥がさえずるような軽やかさで話しかけてきた。
「あ、おかえり春馬くん! さっきの続きだけどさ、やっぱり勉強会、今日から始めるのが最適だと思うんだ。ねえ、場所はどうする? 図書館? それとも――」
春馬は蒼奈の顔を直視しなかった。視線は机の上の傷、あるいは分子レベルの何かに固定されたまま、声だけを無機質に放出した。その声には、朝まであった「困惑」という人間味すら消え失せていた。
「……若宮。共同学習の件だが。……少し、考えさせてくれ」
「えっ……? 考えさせてくれって……」
蒼奈の声が、戸惑いに揺れる。彼女の「不確実な楽しさ」という理論において、春馬のこの「温度のない保留」は想定外の挙動だった。
「……どうしたの? さっきまでは、あんなに屁理屈言いながらも、やる気……というか、断る理由を探してたみたいだったのに。何か、嫌なことでもあった?」
「……何もない。ただ、俺自身の計算リソースが一時的に枯渇しただけだ。(……若宮の提案に含まれる『未知のコスト』と『隠された意図』について、再定義する必要がある。)……それだけだ」
春馬の言葉は、まるで法廷で読み上げられる判決文のように冷たく、間に立ち入る隙を与えない。
「(そうだ。安易な合意は破滅を招く。……彼女がもし、あの階段下の女子たちと同じように、俺の『困惑する顔』をスコアに換算するプレイヤーだったとしたら。俺が彼女に『心』というリソースを預けた瞬間に、全ての論理は瓦解し、俺は再び『過去』に戻る。……保留だ。保留こそが、今取り得る唯一の安全なバッファ(緩衝材)だ)」
蒼奈は、春馬の横顔をじっと見つめていた。その瞳には、いつもの悪戯っぽさはなく、深い懸念が渦巻いている。
「……わかった。春馬くんがそう言うなら、待つよ。……でも、一つだけ言わせて。私は春馬くんを『分析』したくて誘ってるんじゃないよ。私は、ただ――」
「……その言葉の真偽についても、追って検証する。……今は、沈黙を許可してくれ」
春馬は教科書を開き、活字の海に逃避した。
蒼奈の差し伸べた手が、宙で止まり、静かに下ろされる。
教室内を流れる空気は、春馬を中心に絶対零度まで引き下げられ、二人の間に、かつてないほど高く、透明で、強固な「不信の壁」が再構築された。
「(……誰も信じない。誰も頼らない。……それが、俺を傷つけないための唯一の絶対法則だ。……たとえそれが、全教科100点の光り輝く少女であっても)」




