第八十三話「近づく第1期末テスト④」
給食という喧騒が終わり、春馬は喧騒を避けるように一人で教室を後にした。午前の蒼奈とのやり取りで、彼の心は珍しく「他者への歩み寄り」という未知の領域に足を踏み入れかけていた。
「(……危ういところだった。若宮の正論に感化され、俺は『他者との共同作業』に期待を抱き始めていた。だが、思い出せ。世界はそれほど単純ではない。他者の親切心には必ず、計算された裏打ちがあるはずだ。……俺は、俺の論理を研ぎ澄まさなければならない)」
彼は自分を律するように、冷たい静寂を求めて廊下の奥へと歩みを進めた。
階段の踊り場を通りかかった時、階下から弾けるような女子グループの笑い声が聞こえてきた。普段なら聞き流すノイズだが、その内容に含まれた「ある単語」が、春馬の足を凍りつかせた。
「――そろそろテストじゃん。最悪ー」
「でも、ちょっと楽しくない?」
「え? テストが? あんたバカなの?」
「違うよぉ、テストが楽しいわけないじゃん。……私さ、今クラスの地味な奴と仲良いんだよね」
春馬の背筋に、冬の隙間風のような冷気が走った。脳内にある「小学校時代のいじめ」のデータが、警告灯を激しく点滅させ始める。
「え、好きなの?」
「あはは! なわけないじゃん。ゲームだよ、ゲーム」
女子たちの声は、隠す様子もなく反響し、春馬の鼓膜を汚染していく。
「その男、地味で気持ち悪い奴だから周りに人がいないわけ。だからさ、テストに向けて『一緒に勉強しよ!』って誘って接触するじゃん? で、優しくして男を勘違いさせて、私に告白させるの。それがゴール」
「……で、その後は? もしかして付き合う感じ?」
「は? なわけないじゃん。盛大に振るよ。 あはは、どんな顔するか見たくない? その後テストどころじゃないだろうね」
笑い声。それは春馬がかつて「雑巾」と呼ばれ、泥を塗られたバレンタインや文化祭で聞いた、あの音と同じ周波数だった。
「(……呼吸が……浅くなる。……これが、『他者の善意』の正体だ。彼女たちが言う『勉強』も『優しさ』も、全ては自己の優越感を満たすための、あるいは退屈を紛らわすための、残酷な娯楽のパーツに過ぎない)」
春馬は壁に手をつき、震える指先を隠すように拳を握りしめた。脳裏に、つい数分前まで笑顔で自分を誘っていた蒼奈の顔が浮かぶ。
「(……若宮、君も同じなのか? 全教科100点という圧倒的な『強者の立場』から、平均点ギリギリの俺を誘い、懐柔し、俺が『不確実な楽しさ』を信じた瞬間に、全てをゴミ箱に捨てるつもりなのか? ……そうだ、それこそが論理的だ。効率的な捕食者は、獲物が最も油断した瞬間を狙う)」
春馬の瞳から、僅かに宿っていた熱が消え、絶対零度の冷徹さが戻ってきた。
「(危うく『友情』や『信頼』という名のバグをシステムに組み込むところだった。……階段の下の彼女たちが、俺に真理を思い出させてくれた。……女の優しさは計算だ。親切は罠だ。……若宮蒼奈。お前の『100点』の輝きは、俺を嘲笑うための照明弾に過ぎない。……俺は、もう二度と、その光に手を伸ばさない)」
春馬は一歩も動かぬまま、女子たちの笑い声が遠ざかるのを待った。彼の心は再び、誰の手も届かない、冷たく高い氷の城壁の中に引き籠もっていった。




