第八話「昼食」
予鈴が鳴り、教室は一気に昼休み特有の喧騒に包まれた。
俺にとって、給食の時間は論理的な危険度が最も高い時間帯だ。集団での食事は、無数の感情と非効率的な会話が飛び交い、いじめという名の悪意が最も生まれやすい。故に、俺の最適解は、普段授業を受ける自席に留まり、誰とも目を合わせず黙々と食事を済ませる孤立戦略だ。昼食時は自由席となる教室で、最も目立たず、関わられない論理的な選択だ。
俺は、給食当番が運んできたトレーを素早く受け取り、周囲に一切視線を合わせないよう、正面の窓だけを見据えて給食を並べた。今日のメインは、第七話で蒼奈が予告した通り、鯖の味噌煮だ。
美味い。
この鯖の味噌煮の甘辛い味のバランスは、極めて論理的に完成されている。食事は、論理的なエネルギー補給に過ぎない。感情など不要だ。
俺が、周囲の非効率的な会話を完全にシャットアウトし、静かに食事を始めた、その直後だった。
「春馬くん、隣、いいかな?」
優しく、そして周囲の喧騒を切り裂く、非論理的に澄んだ声が響いた。
俺の心臓が、警告レベルまで脈打つ。
顔を上げると、そこには若宮 蒼奈が、自分のトレーを両手に持ち、満面の笑みを浮かべて立っていた。
「何を馬鹿なことを言っている? 給食は自由席だ。君がわざわざ、この孤立戦略を採っている俺の隣に座る論理的な必然性はない」
俺は不機嫌さを隠さず、冷ややかに言い放った。彼女は、わざわざ自由席から隣に来たという、最も非論理的で目立つ行動を取っている。
「必然性はあるよ。だって、研究だもん」
蒼奈はそう言うと、周囲の困惑した視線を一切気にせず、俺の机の隣に自分のトレーをピッタリとくっつけるように置いた。物理的な距離、すなわちパーソナルスペースの論理的な防御が、一瞬にして破られた。
「今日の研究テーマは、『箕島春馬の食の嗜好と、感情的メリットの関連性』だからね!」
蒼奈は、まるで今から極秘の解剖でも始めるかのように、目を輝かせた。そして、彼女の給食にも、もちろん鯖の味噌煮が乗っていた。
「君の浅薄な好奇心のために、俺の最適化された食事時間が阻害される。即刻、席を戻せ」
「やだ。だって春馬くん、鯖の味噌煮の時だけ、食べるスピードが普段より1.2倍速いんだよ?そんな面白いデータ、隣で近接観察しなきゃ、もったいないでしょ?」
俺の口の中の鯖の味噌煮の味が、一気に消え失せた。
1.2倍速い? この女は、俺の食事のペースまで、秘密裏に計測していたというのか? 俺の日常の全てが、彼女の非論理的な好奇心という名の監視下にある!
俺は、湧き上がる屈辱を不敵の笑みで押し殺すのが精一杯だった。
「……幼稚なストーカー行為だ」
「ストーカーじゃないよ、研究だよ!ほら、見て」
蒼奈は、自分の鯖の味噌煮の皿を、俺の前に差し出してきた。
「春馬くん。私、鯖の味噌煮、そんなに得意じゃないんだ。だから、半分交換しない? 春馬くんの『美味しい』という感情のデータが欲しいの」
彼女は、「鯖の味噌煮」を「データ」という言葉にすり替えることで、俺に論理的な交換トレードを持ちかけてきた。俺の給食の嗜好というプライベートな事実を逆手に取った、悪魔的な非論理的交渉だった。
彼女は、「鯖の味噌煮」を「データ」という言葉にすり替えることで、俺に論理的な交換トレードを持ちかけてきた。俺の給食の嗜好というプライベートな事実を逆手に取った、悪魔的な非論理的交渉だった。
俺は、不敵の笑みを固定したまま、蒼奈の提案を冷徹に分析する。
「君の提案は、論理的な破綻をきたしている」
「えー?どこが?」
蒼奈は首を傾げ、純粋な興味で俺の分析を待っている。
「君は今、『鯖の味噌煮が苦手だ』と述べた。だが、その苦手意識を克服せずに、楽に処理しようとする行為は、君の『成績優秀、文武両道』という自己の絶対評価と矛盾する。自己の欠陥を、最も安易で非効率的な『交換』で解決しようとするのは、論理的に見て怠惰だ」
俺は、蒼奈の行動の裏側、すなわち「真の動機」
を暴こうと、言葉の刃を研ぎ澄ませた。
「君の『美味しいという感情のデータが欲しい』という言葉は、建前に過ぎない。君の本音は、『どうにかして楽に苦手な鯖の味噌煮を少なくしたいな〜』という、極めて自己中心的な作戦なんじゃないか? 君は、半分交換するために、俺に半分嘘をついているだろ」
俺は、過去の裏切りに対する極度の警戒心という名の論理的な防衛機構を最大に起動させ、彼女の優しさの裏にあるであろう『悪意の構造』を暴き、彼女を論理的に拒絶しようと試みた。
蒼奈は、俺の鋭い指摘に対し、全く動揺しなかった。それどころか、まるで名探偵の推理を聞く子供のように、目を輝かせた。
「ふむふむ。春馬くんは、私が『鯖の味噌煮を回避したい怠惰な人間』で、『嘘をついている』と仮定したわけだね。論理的な構造は完璧だよ! 裏切りを予期する春馬くんにとって、最も安全で予測可能な結論だ」
蒼奈は、俺の最悪の仮定を肯定しつつ、「それが最も安全な結論だ」と突きつけることで、俺の警戒心そのものを『逃避の論理』として再定義した。
「じゃあさ、春馬くん」
蒼奈は、自分の鯖の味噌煮に添えられたネギをそっと指差した。
「私の給食には、ネギが多すぎるんだ。私、ネギは嫌いじゃないけど、ちょっと多い。もし私が、
『ネギを春馬くんに交換して欲しい』と頼んだとして、春馬くんが『ネギ嫌い』なことを知っていたら、春馬くんは交換に応じてくれる?」
俺の思考回路が、急ブレーキをかける。ネギは、俺にとって『鯖の味噌煮』以上にどうでもいい、
論理の外の要素だ。
「……何を言っている。俺はネギの交換など求められていない」
「そうだよね。じゃあ、聞くけどさ」
蒼奈は、悪意のない笑顔で、核心を突いてきた。
「『君は半分交換するために、半分嘘をついているだろ?』って春馬くんは言ったけど、私が嘘をついていたとして、春馬くんに何かデメリットがあるの?」
俺の脳内は、再びアラートで満たされた。
デメリット? 確かに、俺は鯖の味噌煮をより多く手に入れられる。デメリットは、彼女の悪意(嘘)を受け入れたという精神的な屈辱のみだ。だが、この精神的な屈辱こそが、俺の論理の全てだ!
春馬は、湧き上がった感情を抑え込み、トレーに手を伸ばした。
「……分かった。君の非論理的な優位性を認める。交換だ」
俺は、自分の給食皿から鯖の味噌煮を半分取り、蒼奈の皿へ移した。
「ただし、俺が交換したのは、君の論理的な悪意を暴くためのデータ収集が目的だ。君の『美味しいという感情のデータ』など、無価値だ」
蒼奈は、俺の負け惜しみを、最高の研究結果として受け入れた。
「ありがとう、研究者さん!
じゃあ、『美味しい』という感情のデータ、
早速収集させてもらうね!」
そして、彼女は、俺から譲り受けた鯖の味噌煮を、本当に少しだけ美味しそうに食べ始めた。
俺は、彼女に論破された屈辱を噛みしめながら、いつもより遥かに量の増えた鯖の味噌煮を、無言で口に運んだ。
周囲のクラスメイトの視線が、
『マドンナが孤立者と仲良く食事をしている』
という非論理的な事実に対し、困惑と警戒の色を深めていくのを、俺は静かに感じていた。
第八話公開しました!




