第七十六話「春馬の平穏」
朝。春馬は校門をくぐりながら、昨夜構築したプロトコルを起動させていた。
「(周囲の音響エネルギー、視覚情報の全てを非感情的データに変換する。すれ違う生徒の挨拶は『声帯の振動』、校舎に反射する朝日は『電磁波の散乱』だ。……よし。ノイズが消えた。世界はこれほどまでにシンプルだったのだ)」
彼は、自分の心拍数がかつてないほど安定していることに満足を覚えた。これこそが、あるべき「研究者」の姿だ。
教室に入ると、即座に「最大の変数」である蒼奈が近寄ってきた。彼女は今日も昨日プレゼントしたノートを小脇に抱え、太陽のような笑顔を向けてくる。
「おはよう、春馬くん! 今日はなんだか、すごくスッキリした顔してるね?」
いつもなら、この瞬間に春馬の脳内メモリはパニックを起こし、意味不明な暴言を吐いていただろう。しかし、今の彼は違う。
「(対象(若宮)の口角が約15度挙上。眼輪筋の収縮を確認。これは一般的な『好意的な表情』のテンプレートに合致する物理現象だ。……問題ない)」
「……おはよう、若宮。睡眠による脳のリフレッシュが最適に行われた結果、生理的コンディションが安定しているだけだ」
「……へぇ? いつもより、返事が……『普通』だ。すごい、今日の春馬くん、なんだか落ち着いてる!」
蒼奈は驚いたように目を丸くしたが、春馬はそれすらも「瞳孔の散大」として冷静に処理し、流れるように自席へと着いた。
一限目から四限目まで、春馬はかつてない集中力で授業に臨んだ。隣の席の蒼奈が、時折ノートをこちらに見せようとしたり、ペンを回して気を引こうとしたりしても、彼は一切動じない。
「(対象がノートを掲示。記載内容は不明だが、それは単なる『インクのパターン』だ。俺の思考を占有するに値しない。……対象がこちらを注視。これは『視線の交差』という確率的事象に過ぎない。無視、だ)」
春馬の徹底した「スルー技術」は、もはや芸術的な域に達していた。彼は自分の脳が「落ち着き」という名の、強固なコンクリートで固められているような全能感に浸っていた。
昼休み、蒼奈は春馬のデスクを覗き込み、少しだけ首を傾げた。
「ねえ、春馬くん。今日、本当にどうしちゃったの? 全然揚げ足取らせてくれないし、私の言葉に一個も動揺してない。……なんだか、『ロボットモード』に入っちゃったみたい」
「……ロボットではない。ただ、物事をあるがままに、物理的な事実として受け取っているだけだ。若宮、お前も『不確実な楽しさ』などという曖昧なものに頼らず、一度世界をデータとして見てみたらどうだ?」
「……ふーん。データ、ねぇ。……でも、その『鉄壁の落ち着き』、いつまで保つのかな?」
蒼奈はそう言って、悪戯っぽく、しかしどこか「楽しそうな」笑みを浮かべた。
春馬は一瞬だけ、背筋に微かな震え(生理的反応)を感じたが、即座にそれを「室温の低下による熱産生」として棄却した。
「(午前中のミッションは完璧な成功を収めた。俺は落ち着いている。俺は凪だ。……このまま放課後まで、一ミリの隙も見せずに完遂してみせる。……若宮蒼奈、君の『予測不能な変数』は、この鉄壁の論理防壁の前には無力だ)」
春馬は、自分の成功を確信し、冷徹に弁当の蓋を開けた。しかし、彼はまだ気づいていない。
蒼奈が、その「落ち着きすぎている春馬」を「どうやって崩すか」という、全く新しい次元の研究に、目を輝かせて着手し始めていることに。




