第七十四話「定義の防衛戦」
放課後のチャイムが鳴り響き、喧騒が遠のく教室。春馬は自分の鞄を整理しながら、どうしても視線の端に映る「あのノート」を無視することができなかった。蒼奈は机の上で、大切そうに、しかし熱心にペンを走らせている。
朝の「完敗」から半日。春馬の脳内では、新たな「論理的再構築」が完了していた。
「演算結果:若宮が朝見せたあの一文……『全ページを研究で埋める』という宣言。あれは、彼女特有のオーバーな比喩表現だ。冷静に考えれば、あんな小さなノートに逐一研究記録を書くなど非効率極まりない。……おそらく、彼女はただ、ノートという媒体に自分自身の感情を吐き出したいだけなのだ)」
春馬は、その行為を「日記」と定義することで、自分の心臓に刺さった棘を抜こうと試みた。
春馬は立ち上がり、帰る間際に、あえて無関心を装った平坦な声で蒼奈に問いかけた。
「若宮。……お前は、日記を書くのが趣味なのか?」
「えっ? 日記?」
蒼奈がペンを止め、不思議そうに顔を上げる。
「そうだ。お前がそのノートに書き込んでいる内容は、客観的な事実の集積というよりは、主観的な感情の羅列……いわゆる『日記』や『ポエム』の類だろう。もしそうなら、それを『研究記録』と呼ぶのはカテゴリーエラーだ。趣味として個人的な内省を記録する分には構わないが、俺を巻き込むような表現は慎むべきではないか?」
春馬は、彼女の書き込みを「個人的な趣味(日記)」として切り離すことで、自分の存在をノートから除染しようとした。
蒼奈は、春馬の言葉を聞いて、クスリと悪戯っぽく微笑んだ。彼女はノートを閉じず、あえて春馬に見えるように差し出した。
「日記……うーん、ちょっと違うかな? 日記って、一日の終わりに一人で振り返るものでしょ? でもね、春馬くん。私が書いてるのは、『春馬くんという変数が、私の心にどんな化学反応を起こしたか』っていう、リアルタイムの研究レポートなんだよ」
「……化学反応だと? 抽象的すぎる。それは単なる情緒の揺らぎだ」
「そうかな? 例えば、五分前の春馬くん。私がノートを書いてるのをチラチラ見て、話しかけるタイミングを3回も逃してたでしょ? そういう**『不器用な観測者の挙動』を記録するのって、すっごく有意義な研究だと思わない?」
「(警告:致命的なプライバシー侵害! 筒抜けだ。俺の行動が全て記録されている……!)」
春馬は顔を背け、足早に教室の出口へ向かおうとした。しかし、蒼奈の言葉が彼の背中を追いかける。
「日記じゃないよ、春馬くん。これは、私たちが一緒に過ごした時間のログなんだから。……ねえ、今度、春馬くんもここに何か書いてよ。研究者としての意見をさ」
「……断る! 俺がそのような非論理的な感情の集積場に加担する理由がない。……お前が勝手に書いて、勝手に満足していればいい。……日記でも、ログでも、好きに呼ぶがいい!」
春馬は吐き捨てるように言って教室を飛び出した。
「(最終ログ:日記。そうだ、あれは日記だ。彼女一人の妄想だ。俺は関係ない。……だが、あいつが俺の『話しかけるタイミング』まで記録していたということは……俺の日常は、今後あのノートによって逐一アーカイブ化されるということか?)」
自宅へ向かう道すがら、春馬は「日記」という言葉で自分を納得させようとしたが、脳裏には蒼奈がノートに書き込む時の、あの「世界で一番、楽しそうな顔」が焼き付いて離れなかった。
「(……クソッ。日記趣味なら、もっと地味なノートに書けばいいだろうに。……なぜ俺が贈った、あの革の香りがするノートでなければならないんだ……!)」




