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第七十三話「脆弱な防波堤」


「おはよう、春馬くん!」


蒼奈が弾むような声で、春馬のデスクの領域に侵入してきた。彼女の手には、昨日渡したばかりのあの革のノートが握られている。

春馬の「凪」の決意は、そのノートが視界に入った瞬間にピシリと音を立てて亀裂が入った。


「(警告:心拍数急上昇。想定していた『冷徹なスルー』の実行プログラムにエラーが発生。……落ち着け。彼女が何を言おうと、俺は機能性のみを重視する機械マシンだ……!)」


蒼奈はノートを大切そうに胸に抱え、悪戯っぽく、しかし昨日麗華から聞いた「真実」を知っている温かい目で見つめてきた。


「春馬くん、このノートね、早速使わせてもらったよ。お姉ちゃんから昨日の買い物の様子を聞いてから書いたら、なんだかすごく特別な気分になっちゃって――」


その「お姉ちゃん」という単語。そして麗華から「裏側」を暴露されたであろうという確信が、春馬の脳内回路を完全にショートさせた。彼は、自分の脆弱性が暴かれる恐怖から、最も「論理的に破綻した攻撃(防衛)」を繰り出した。


「……若宮! 勘違いするな。お前がそのノートに対して、過剰な重み(情緒)を感じる必要はない。……もし、お前がそのノートを使うことに『責任』を感じて負担になっているというのなら、今すぐ返せ」


「えっ……?」


「捨てるなら、俺が貰う! ……そうだ、俺はちょうどリフィル式のノートの予備が必要だと思っていたところだ。お前がその『意味』に耐えられないというなら、俺が効率的にリソースとして活用してやる。……返せ! 今すぐ返却しろ!」


春馬は顔を真っ赤にしながら、今にもノートを奪い返さんばかりの勢いで立ち上がった。


春馬の言葉は、周囲の生徒が「え、あいつプレゼントしたものを返せって言ってるのか?」と困惑するほどに支離滅裂だった。しかし、彼にとってはこれが精一杯の「照れ隠しの装甲」だった。


「(内部ログ:何を言っているんだ俺は! 自分で贈ったものを『俺が貰う』など、論理的整合性が皆無だ! だが、こうでも言わないと、あいつの『嬉しい』という感情の波動に飲み込まれてしまう。……返せ! 返して、この事象をなかったこと(ロールバック)にするんだ!)」


「…………ぷっ。ふふっ。あはははは!」


蒼奈は、春馬の必死すぎる「返せ」攻撃に、今日一番の笑い声を上げた。


「春馬くん、面白すぎるよ! 『捨てるなら俺が貰う』って……。そんなに私の反応が怖いの? お姉ちゃんに色々バラされちゃったのが、そんなに恥ずかしいんだ?」


蒼奈は笑いながら、春馬の目の前でノートの最初の一ページを開いた。そこには、春馬の「凪」を完膚なきまでに破壊する、彼女の直筆の文字が記されていた。


「はい、これ見て。春馬くんが言う『責任』とか『論理』じゃなくて、これが私の、一番最初の研究結果だよ」

春馬は、吸い寄せられるようにそのページを覗き込んだ。


『6月8日。世界で一番、論理的じゃない(とっても優しい)プレゼントを貰った。このノートの全ての余白を、春馬くんとの研究で埋め尽くすと決めた。』


「…………っ!!」


春馬は、ノートを奪い返すことも、冷徹な言葉を吐くこともできなくなった。


「(演算停止:……『世界で一番、論理的じゃない』……。……全ページを、俺との研究で……。……完敗だ。俺の築いた防波堤は、彼女のこの『たった数行の文字列』によって、跡形もなく消滅した)」

春馬は力なく椅子に座り直し、教科書で顔を覆った。


「……勝手にしろ。もう、俺の知ったことではない……」

その教科書の下から見える耳は、昨日よりもさらに赤く染まっており、彼の「凪」への誓いは、今日という日が始まってわずか数分で、失われることとなったのである。

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