第七十二話「凪を求める演算」
昨夜、春馬は一睡もできなかった――わけではない。むしろ、あまりの論理的混乱に脳がオーバーヒートした結果、強制シャットダウン(気絶に近い就寝)を余儀なくされたのだ。
目覚めた春馬は、鏡の前で自分に言い聞かせる。
「(状況確認:昨日の『誕生日プレゼント授与』というミッションは、実行プロセスにおいて多大なるエラーを露呈した。しかし、結果として受領された事実は変わらない。……問題は、その後の俺の『脆弱性(照れ)』を若宮に突かれ、主導権を完全に掌握されていることだ。これでは研究者ではなく、ただの被験体だ)」
「(対策:今日からは『凪』だ。若宮の言動に一喜一憂し、自ら揚げ足を取られるような失言を吐くフェーズは終了した。今日からは、初期のような『冷徹な観測者』に回帰する。彼女が何を言おうと、論理的に一歩引いた位置で受け流す。それが俺の誇りを取り戻す唯一の道だ)」
校門をくぐる春馬の足取りは、昨日までの焦燥感とは打って変わって、冷徹なまでに安定していた。
「(これまでの敗因を分析した結果、俺が『感情の言葉』に慣れないまま対抗しようとしたことにあった。例えば、昨日ハーフアップに触れたこと。あれは物理的観測に基づいた発言だったが、文脈が誕生日であったために『情緒』として変換された。ならば今日は、徹底して文脈を無視する。 彼女が何を仕掛けてきても、俺は『ただの事実』だけを返す無機質な壁となるのだ)」
彼は脳内で、想定される蒼奈からの攻撃を次々と論理的に無効化するイメージトレーニングを繰り返す。
『春馬くん、昨日のノート大切にするね!』
『ああ、リフィル式だからコストパフォーマンスは良いはずだ。勉強に励め』
よし。これだ。この「可愛げのなさ」こそが、俺の本来の生存戦略だ。
教室のドアを開ける。朝の光が差し込む中、そこには昨日と同じハーフアップの髪を揺らし、春馬の「最適解」である革のノートを机に置いている蒼奈がいた。
彼女がこちらに気づき、今にも弾けるような笑顔を作ろうとする。春馬はそれに対し、あえて視線を0.5秒だけ合わせ、すぐに自席へと移動した。
「(観測:若宮の表情筋が、感謝やからかいを放出するための準備段階に入っている。……だが、俺はそこに乗らない。挨拶は最小限。感情の揺らぎはゼロ。心拍数は72。……完璧だ。俺は今、凪の状態にある。どんなに揚げ足を取られようと、そこに足がなければ崩されることもない。俺は今、空中に浮遊する論理の城なのだ)」
春馬は静かに教科書を開いた。周囲の生徒たちが談笑し、蒼奈がこちらに近づいてくる気配を感じるが、彼は動じない。
「(昨夜、麗華によって俺の『ピュア』な裏側が全て暴露されたなどとは、今の俺は微塵も思っていない。詳細は姉に聞け、と言ったのだから、彼女たちが何を話そうがそれは俺の関知するところではない。……俺は、俺の論理を信じる。今日こそは、若宮蒼奈に『つまらない男』だと思わせるほどに冷徹に過ごしてみせる)」
彼は、自分の右手が少しだけペンを握る力を強めていることに気づかない振りをしながら、呼吸を整えた。
「(……さあ、来るがいい若宮。君の『不確実な楽しさ』を、俺の『確実な無関心』で完封してやる)」
――しかし、春馬はまだ知らない。
彼の目の前で、蒼奈が昨日彼が贈ったノートを開き、そこに書かれた「春馬の論理を内側から爆破する最初の一文」を今まさに披露しようとしていることを。




