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第七十一話「若宮家の夜」


夜。若宮家のリビングは、穏やかな照明に包まれていた。蒼奈は、自分の部屋に戻るのも惜しいようで、ダイニングテーブルの上で春馬から受け取った「革のノート」を何度も撫でていた。その横では、姉の麗華がハーブティーを飲みながら、面白そうに妹の様子を観察している。


「……ねえ、お姉ちゃん。今日、春馬くんからこれ貰ったよ。お姉ちゃんと一緒に買いに行ったんだって?」

麗華はカップを置き、ニヤリと意味深な笑みを浮かべた。

「ああ、あの『世紀の難題に挑む哲学者』みたいな顔して買い物をしていた春馬くんのこと? うん、しっかりエスコート(?)してあげたわよ」


「えっ……やっぱり本当だったんだ。あんなに早口で『詳細は姉に聞け』って言われちゃって。春馬くん、どんな様子だったの?」


麗華は椅子に深く腰掛け、面白おかしく、しかし慈しむようなトーンで「あの日」の報告を開始した。


「いい、蒼奈。あの子、最初はなんて言ったと思う? 『プレゼントは、嬉しくても困っても邪魔にならない、消費して消滅するものが最適解だ』なんて、大真面目に演説してたのよ」


「ふふっ、あはは! いかにも春馬くんらしい! 『消えもの』じゃないと、私の空間的リソースを奪っちゃうとか思ったのかな?」


「正解。でもね、そこからのあの子が凄かったわ。私が『形に残るものの方が、蒼奈は喜ぶよ』って言った瞬間、あの子の脳内回路が完全にショートしたみたいで。『形に残るものは、関係性の固定という重すぎる負債になる』とか何とか言って、一時間以上、お店の中で真っ白な顔してフリーズしてたんだから」


蒼奈は、ノートを抱きしめる手に力を込めた。そのノートが、どれほどの「葛藤」の末に自分の手元に届いたのかを知り、胸の鼓動が早まる。


「あの偏屈な春馬くんがね、蒼奈。お店にある商品を一つ一つ手に取っては、『これは重すぎる』『これは意味が深すぎる』って、まるで爆弾処理班みたいな必死さで吟味してたの。あんなに誰かのために必死に、自分の信条ロジックを曲げてまで悩む姿、見せてあげたかったわ」


麗華の話は止まらない。文字通り、いつもの倍以上の熱量で、春馬の「可愛らしさ」を妹に叩き込んでいく。


「最終的にそのノートを選んだ時、彼はなんて言ったと思う? 『これは中身ノートは消える消耗品だが、外側カバーは継続的な思考の器になる。機能性と保存性の止揚アウフヘーベンだ』……なんて、自分を納得させるための言い訳を必死に並べてた。でもね、蒼奈。あの子の目は、完全に『蒼奈がこれを使っている姿』を想像してたわよ」


「……春馬くん、そんなに悩んでくれたんだ。私がいつもメモを失くしそうになってるの、見ててくれたんだ……」


「そうよ。あの子、『ただのクラスメイト』なんて言っておきながら、蒼奈の些細な行動を誰よりも細かくプロファイリングしてる。最後にお会計する時なんて、耳まで真っ赤にして『これは若宮の非効率を改善するための、あくまで論理的な投資だ』って自分に言い聞かせてたんだから」

麗華は、妹の瞳が潤んでいるのを見逃さなかった。


「蒼奈。あの子は自分のことを『冷徹な論理主義者』だと思い込んでるけど、あんなにピュアで、不器用で、一生懸命な嘘つき、私だって初めて見たわ。あの子、今日渡す時も、私の名前を出して責任逃れしたでしょ?」


「うん……。思いっきり『詳細は姉に聞け!』って」


「あはは! 逃げ道を作っておかないと、自分自身の感情の熱量に耐えられなかったんでしょうね。可愛いじゃない。蒼奈の勝ちよ。あの子の鉄壁の論理は、もう君という『予測不能な喜び』に、内側からボロボロにされてる」

蒼奈は、テーブルの上のノートを開いた。まだ何も書かれていない真っ白なページ。しかし、そこには春馬が費やした膨大な時間と、必死に隠そうとした「好意」という名の論理が、ぎっしりと詰まっているように見えた。


「……お姉ちゃん。私、明日、このノートに最初に書くこと、もう決めたよ」


「あら、何を書くの?」


「『世界で一番、論理的じゃないプレゼントをありがとう』って。……春馬くん、どんな顔するかな?」


夜の若宮家に、姉妹の明るい笑い声が響く。

一方、自分のアパートで「姉の名前を出したから、これで全ては論理的に解決したはずだ」と自分に言い聞かせながら、眠れない夜を過ごしている春馬。

彼の「完璧な防衛計画」は、この夜、既に完璧に瓦解していたのである。

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