第六十九話「6月8日の授業中」
一限目:数学――
黒板にチョークの音が響き、二次関数のグラフが描かれていく中、春馬のノートには一切の数式が書き込まれていなかった。彼の脳内メモリは、今、「プレゼント授与の最適解」という、数学よりも遥かに難解な未解決問題に占有されていたからだ。
「(演算開始:現在時刻、午前9時15分。プレゼントの授与タイミングにおける、朝・昼・放課後の三つのセグメントを比較検証する。……まず、最大の誤算は『朝、登校直後の接触』を逃したことだ。あの瞬間、俺が『髪を戻したのか?』などという低刺激な観測データを投じる前に、即座に鞄からノートを排出し、『誕生日というイベントに対する儀礼的供出物だ』と突き出すべきだった。そうすれば、今のこの脳内リソースの無駄遣いは発生していなかったはずだ)」
春馬は、自身の初期判断の遅れに歯噛みした。
「(朝に渡すべきだった理由その一:先行者利益の喪失。 他の有象無象のクラスメイトが貢物を捧げる前に渡すことで、俺の贈与を『日常の延長』として紛れ込ませることができた。しかし今はどうだ? 彼女のデスクの周囲は既にプレゼントの山。あの中に俺の『研究ノート』を投入すれば、他の感情的な贈り物と同等に分類され、俺の論理的意図が歪曲されるリスクがある)」
二限目:現代文――
授業が進み、夏目漱石のこころにおける「人間のエゴ」についての解説が流れてくるが、春馬の心境はそれ以上に複雑に絡み合っていた。彼は「自然に渡す」という、実体のない概念を論理的に解体しようと試みていた。
「(そもそも、『自然』とは何だ? 統計的に予測可能な行動パターンか? いや、俺と若宮の関係性における『自然』とは、『論理的な必然性』が担保されている状態を指す。ならば、唐突にプレゼントを差し出す行為に、どのような必然性を付与できる? ……『君のノートが非効率だから補充した』? いや、それでは誕生日という文脈を無視しすぎて不自然だ。逆に、『おめでとう』と一言添えるのは、俺のキャラクターステータスにない異常な出力であり、システムバグとして検知されるだろう。……クソッ、『自然』という定義そのものが非論理的だ)」
春馬のペンが、白紙のページの上で小刻みに震える。
「(朝の失策が響いている。あの時、彼女がハーフアップに言及されて喜んだあの『黄金のタイミング(ゴールデン・ウィンドウ)』……! あの瞬間にノートを差し出していれば、彼女の過剰な解釈の波に紛れて、スマートに受領させることができた。今はもう、その窓は閉ざされた。再演算が必要だ)」
三限目:化学――
化学の授業中、春馬は「ノート」という物質が、蒼奈という「高反応性触媒」に接触した際の化学反応をシミュレートしていた。
「(シミュレーションA:昼休み。 クラスメイトの監視下での授与。メリット:公的な場であるため、二人きりのような密室性が排除され、重みが軽減される。デメリット:周囲の冷やかしというノイズが混入し、俺の論理が『恋愛感情』として誤読される確率が98%に跳ね上がる。これは許容できない。
シミュレーションB:放課後。 二人きりの教室。メリット:情報の秘匿性が高く、論理的な説明に時間を割ける。デメリット:『放課後の二人きり』というシチュエーション自体が、古今東西の恋愛小説・漫画において『告白』の同義語として定義されている。……危険だ。あまりにも危険すぎる)」
春馬は頭を抱えた。どの選択肢を選んでも、何らかの論理的な矛盾が生じる。
「(やはり、朝だ。朝の俺に、タイムマシンで『演算を捨てて、即座に渡せ』と伝えたい。朝ならば、『登校時のルーチンの一環』として処理できた。何より、誕生日という一日が始まった直後に渡すことで、その後の時間を『ノートを渡した後の世界線』として安定して過ごせたはずなのだ。今の俺は、『渡さなければならない未完了タスク』を抱えたまま、一分一秒と精神エネルギーを漏洩させている……!)」
四限目:世界史――
昼休み直前の四限目。春馬の疲労はピークに達していた。
「(なぜ、若宮(麗華)さんの誘いに乗ってしまったんだ。……いや、若宮さんの誘いは論理的だった。問題は、俺がこの『物理的な贈り物』という、重力を持った物質の扱いを甘く見ていたことだ。……若宮蒼奈。君は、髪型を変えるだけで俺の観測を狂わせ、誕生日というだけで俺の論理を麻痺させる。……これが君の言う、『不確実な楽しさ』の結果だというのか?)」
チャイムが鳴る。昼休みが始まる。
春馬は鞄の奥底に眠る、革の香りがする「重荷」に触れた。
「(……行くしかない。朝のミスを挽回することは不可能だ。ならば、この『論理的敗北』を認めた上で、最も被害の少ない形での緊急着陸を試みる。……昼休みか、放課後か。……俺の脳細胞よ、最終結論を導き出せ。……いや、答えは既に出ている。放課後だ。 周囲のノイズに晒されるよりは、彼女という強大な変数と一対一で対峙し、論理の暴走を直接制御する方が、生存確率は高い……はずだ)」
春馬は立ち上がった。彼の目は、まるで決戦に向かう騎士のような(あるいは死刑台に向かう罪人のような)悲壮な決意に満ちていた。




