第六十八話「6月8日の朝」
6月8日、月曜日。登校した春馬が目にしたのは、校門から教室に至るまで、至る所で発生している「祝福の局所的嵐」だった。
「蒼奈ちゃん、誕生日おめでとう!」
「これ、みんなからのプレゼント!」
「(観測結果:若宮蒼奈の周辺における感情エネルギーの密度は、平時の300%以上に達している。……これが学園のマドンナという存在の『重力』か。俺のような背景の一部と同化した人間とは、文字通り住む世界が違う)」
春馬は鞄の中にある「革のノート」の重みを感じ、それを渡すことの論理的難易度の高さに目眩を覚えた。
教室に入ると、中心にはやはり蒼奈がいた。しかし、春馬の鋭い観察眼は、彼女のある「物理的な変化」を即座に検知した。
ここ最近、ポニーテールにしていた彼女が、今日は以前のような、大人びたハーフアップのロングヘアーに戻っていたのだ。
春馬は、周囲の「おめでとう」というノイズを掻き分けるように、彼女の横を通り過ぎざるを得なかった。その際、彼は反射的に観測した事実を口にした。
「……若宮。髪、戻したのか?」
周囲がプレゼントやパーティーの話で盛り上がる中、春馬の言葉はあまりにも唐突で、日常的だった。しかし、蒼奈はパッと顔を輝かせ、誰に向けたものよりも深い笑みを春馬に返した。
「……うん! 気がついてくれたんだね、春馬くん。嬉しい!」
「……? 気がつかない方が難しい。視覚情報の変化を無視するのは、研究者として怠慢だ。それより、今日は随分と周囲のノイズが……」
「ううん、そうじゃないよ。春馬くん、今までずっと私のことを『新鮮だ』って言ってくれてたでしょ? それって、私がどんなに変化しても、その一瞬一瞬の変化に春馬くんが気がついてくれてたってことだもんね。……今日も、真っ先にそれに触れてくれて、本当にありがとう」
蒼奈の瞳には、誕生日を祝われる喜び以上の、「理解されたこと」への深い充足感が宿っていた。
「…………は? いや、待て。俺はただ、以前のデータ(ハーフアップ)への回帰を指摘しただけで、そこに感謝されるような情緒的意図は……」
「ふふっ。いいの。それが春馬くんの『おめでとう』だって、ちゃんと伝わったから!」
春馬は絶句した。
「(演算エラー:会話が致命的に噛み合っていない。俺は『物理的変化の指摘』をしただけであり、彼女はそれを『愛情深い観察の結果』と解釈した。……この認識の乖離を修正すべきか? いや、修正しようとすれば、さらに彼女の『純粋認定』を加速させる恐れがある……!)」
春馬は、渡すべきプレゼントを出すタイミングを完全に失った。
「(……おめでとう、という言葉すら出力していないのに、なぜこれほどまでに感謝のレートが高いんだ。若宮蒼奈……やはり、君の感情演算アルゴリズムは、俺の論理の遥か先を行っている……)」
春馬は真っ赤な顔で自席に沈み込み、ハーフアップに揺れる彼女の背中を、ただ茫然と見つめることしかできなかった。




