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第五十九話「初期化されたコミュニケーション」


登校中、春馬の脳内はメインプロセッサが焼き切れるほどの演算で埋め尽くされていた。昨日の蒼奈からの宿題――

『自ら話しかけるという非論理的な入力』。このミッションの難易度は、春馬にとって国家レベルの暗号解読よりも高かった。


「(演算開始:初手の発話におけるトピック選定。政治・経済は議論レスバに発展するリスクがあり、『感情の交換』には適さない。学術的トピックは一方的な講義になり、『双方向の同期』を妨げる。……消去法で残ったのは、生存に直結しない無意味な環境情報、すなわち『天気の話』だ)」


春馬は、人生で一度も使ったことのない「無難な挨拶」という武器を手に、戦場(教室)へと足を踏み入れた。


教室に入ると、そこには既に自分の席に座り、窓の外を眺めている蒼奈がいた。春馬は、心臓の鼓動が論理的な許容範囲を超えて加速するのを感じた。

彼は蒼奈の隣に立ち、一度深呼吸をして、演算の結果出力された「文字列」を喉から押し出した。


「……若宮、今日は……いい天気だな」

それは、あまりにも硬く、不自然で、そして必死な言葉だった。

若宮 蒼奈は、一瞬驚いたように目を見開き、それから弾けるような笑い声を上げた。


「ふふっ! あははは!」


「(警告:即座の爆笑。入力データに致命的な不具合バグがあったか? 晴天という事実に対する認識の相違か?)」


蒼奈は涙を拭きながら、春馬をからかうように見上げた。


「ごめん、ごめん。面白すぎて。春馬くんのことだから、『若宮、今日はいい天気なんて言うと思ったか? 天気の基準は人によって違うし、気象庁の定義によれば……』とか、そういう論理攻撃から入ると思ってたんだよ」


「それがまさか、そんなに直球で普通な挨拶をしてくれるなんて。今の春馬くん、好きな子に初めて話しかける、緊張した小学生みたいだよ?」


「小学生」。その単語は、春馬のトラウマの根源に触れるはずのものだった。しかし、蒼奈の口から出たその言葉には、嘲笑ではなく、圧倒的な愛おしさが含まれていた。


「……小学生だと? 俺の語彙力が初等教育レベルに退行したと言うのか。これは高度な演算の末に導き出された、最大公約数的なコミュニケーション・プロトコルだ」


「ふふ。そういう言い訳がまた小学生っぽいんだよ、春馬くん。でもね、今の挨拶、最高に効率がいいよ。だって、私、すっごく嬉しいもん」


蒼奈は笑いを収め、少しだけ真剣な、それでいて暖かさに満ちた瞳で春馬を見つめた。

「……ねえ、春馬くん。君って、やっぱり純粋ピュアだね」


「(異常検知:『純粋』。その定義は、混じり物がないこと、または知識や経験の欠如。俺の高度な論理システムに対して、最も対極にある評価だ)」


「……意味が分からない。俺は論理的な武装を固めたリアリストだ。『純粋』という表現は、脆弱な個体を指す言葉だろう」


「違うよ。『自分の信じた論理に、これほど一生懸命で、嘘をつけない』っていう意味。君は、私を喜ばせるために、あんなに苦手な『無意味な挨拶』を必死に選んでくれた。その出力結果までのプロセスが、透き通るほど純粋なんだよ」


蒼奈の言葉は、春馬の論理的な鎧を透過し、その奥にある「誰にも触れられたことのない素顔」を優しく撫でた。


「春馬くんの純粋さ、新しい研究テーマとして登録しちゃうね。『論理的武装の奥に隠された、剥き出しのピュアなハート』。これ、観測しがいがあるよー!」

春馬は顔が熱くなるのを自覚した。それは、論理的なオーバーヒートではなく、「純粋だ」と定義されたことによる、未知の感情の共鳴だった。


「(最終観測記録:挨拶ミッション、成功。しかし、『純粋』という新しいラベルを貼られたことにより、自己定義の大幅な修正が必要となった。

……若宮蒼奈、やはり底知れない脅威だ)」


二人の前の窓の外には、春馬が言った通りの、雲ひとつない、非論理的なほどに「いい天気」が広がっていた。

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