第五十八話「新しい契約の履行」
体育祭の熱狂が去り、教室は再び「日常」という低刺激の論理的な空に戻った。しかし、箕島春馬にとって、この空間は以前とは全く違うものに見えていた。
窓際の自席に座る春馬のシステムは、異常なほど高い稼働率で動いていた。隣の席の若宮蒼奈が発する「予測不能な変数」に対応するためだ。
「(警告:防御システムの一部ロック解除により、外部ノイズの侵入リスクが15%上昇。しかし、新契約に基づき、論理的な幸福度の最大化のため、この高リスク状態を維持しなければならない)」
クラスメイトの視線も変化していた。彼らはもはや「トラウマの加害者」ではなく、二人三脚で勝利を収めたペアへの「興味」と「好奇心」という、新しい種類のノイズを発していた。敵意は消えたが、観測されているというストレスは依然として春馬を苛んだ。
春馬は、蒼奈との「感情の交換」を、論理的な演算として処理しなければならなかった。彼は、この新しい行動様式のコスト(消費エネルギー)を、休憩時間を使って再計算した。
昼休み、蒼奈が席を立ち、春馬に話しかける。
「春馬くん、この前、図書館で集めた情報で何か面白い論点は見つかった?」
論理的な目的は「雑談」。論点は「情報収集」。
「(緊急演算!この入力データは、喜びまたは興味という感情的な応答を要求している。論理的な事実の伝達だけでは、交換レートが成立しない)」
春馬は、感情の引き出しから「興味」という変数を取り出し、最適な言語表現と表情筋の動きを瞬時に演算する。
「……ああ。『経済学における非合理的な行動の効率性』についてだ。期待値(E)では説明できない人間の行動の美しさが、論理的な驚きをもたらした」
春馬の返答は硬く、不自然だが、以前の無反応よりははるかに人間的だった。蒼奈は満足そうに微笑む。
「ふふ。興味の共有、完了だね」
蒼奈が去った後、春馬は消耗した精神エネルギーを計上した。
「(消費エネルギー計測:一回の感情的な応答にかかった精神的エネルギーは、高難易度の解析問題20問分に相当。これは、旧論理における効率と比較して約400%のオーバーヘッドである)」
彼は、この「高コストな感情入力」こそが、過去の自分が感情を排除した真の理由だと悟る。感情は、計算量が多すぎるのだ。
春馬の再定義された論理公式(論理的苦痛の可視化):
G_{unpredictable}:予測不能だが巨大な喜び(二人三脚の勝利など)。
E_{emotional}:感情入力コスト(精神的エネルギー消費)。日常で高率で発生。
「幸福度(U)は最大化された。だが、コスト(E_{emotional})が異常に高い。この論理的な苦痛を、幸福の代償として受け入れるしかないのか……」
放課後。春馬が疲弊した思考を抱えたまま、下校準備をしていると、蒼奈が彼の前に立った。
「春馬くん。今日は『応答する』という受け身の義務は完璧に果たしたよ。さすがだね」
「でもね、感情の交換は、受け身だけでは交換レートが長続きしない。なぜなら、私という入力側のエネルギー消費も高まるから」
彼女は、研究者としての論理的な視点から、春馬の行動の変革を要求する。
「次のフェーズは、最も高リスクな行動だよ。君から、私への『非論理的な入力』だよ。つまり、自ら話しかける、感情を晒す、頼る、といった脆弱性を伴う行動のこと」
春馬の全身が硬直した。自ら脆弱性を晒すことは、トラウマの防御壁を内側から破壊することを意味する。それは裏切りのリスクを自ら招き入れる行為だ。
「……それは、論理的な効率を著しく低下させる。裏切りのリスク(R)が最大値になる」
「そうかな?予測不能な喜び(G)を生むためには、予測不能なリスクを投入するしかないでしょう?君は、最高の効率を追求しているんだ」
蒼奈は、春馬の「論理」という鎧の隙間に、「愛」という最も高コストな変数を少しずつ注入しようとしていた。
「さあ、春馬くん。明日の朝、君からの『非論理的な入力』を、楽しみに待っているね」
彼女の言葉は、春馬に避けられない義務として重くのしかかり、彼の論理システムは、この新たな、危険で美しい「研究」の最適な初期入力を求める無限ループへと突入したのだった。




