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第五十七話「体育祭⑬」


体育祭の閉会式。生徒たちの歓喜と達成感が、グラウンドを埋め尽くす最後の「感情ノイズ」として春馬のシステムに襲いかかった。春馬は、二人三脚と大縄跳びという論理的な勝利を収めた今、そのノイズを冷静に観測していた。


「(観測結果:周囲の感情ノイズの周波数は、午前中よりもさらに増大。しかし、俺の心拍数と自律神経系の安定度は、平時を維持している)」


彼のシステムは、蒼奈との「感情の交換」という新しい論理によって、高い耐ノイズ性能を獲得していた。かつてなら恐怖でフリーズしていたはずの環境で、彼は平穏を保っていた。

だが、この平穏は、蒼奈という変数が隣にいるという依存状態によって成立している。春馬は、その非効率な事実を冷静に分析せざるを得なかった。


閉会式が終わり、ほとんどの生徒が帰宅した。春馬と蒼奈は、片付けの最終作業として、競技用具の倉庫へ向かう人気のない廊下を歩いていた。熱狂が去った後の静寂は、二人の密度の高い思考を際立たせた。

「春馬くん。今日は最高のデータが取れたね。論理的な勝利であり、感情のブレイクスルーだよ」


「……勝利は事実だ。だが、ブレイクスルーではない」

春馬は、自身の論理の核心を守ろうと、最後の抵抗を試みた。


「二人三脚で論理を放棄したのは、損失回避のためだ。大縄跳びで優しさを投入したのは、集団同期という効率的な目的のためだ。俺のコアは、論理的な効率を追求するという点で、一切変わっていない」

春馬は、自己の感情の変化を否定し、あくまで外的要因に対する「戦術的な調整」だと主張したかった。


「確かに、君の『感情の交換』という戦術は、旧論理では予測できなかった高効率を出力した。だが、それはあくまでも誤差に近い。俺の本質的な防御機構は、変化していない。少しだけ変わるかもしれない、という程度の、小さな変数だ」


蒼奈は、立ち止まり、春馬に向き合った。彼女の瞳は、春馬の心の壁の小さなヒビを覗き込むように、真剣だった。


「ふふっ……。論理学者らしい、論理的な言い訳だね、春馬くん」

彼女の柔らかい笑みが、春馬の張り詰めた緊張をわずかに緩和させる。

「でも、その言葉が最高のデータだよ」


「『少しでも変わったことは認めるんだね』。しかも、『変わるかもしれない』と、未来への不確実性を受け入れている。これは、『感情のリスクは絶対回避すべき損失である』という、君の旧論理のコアが崩壊した決定的な証拠だね」


春馬は動揺しながらも言葉を紡ぐ。

「誤差の範囲だ」


「誤差じゃないよ、春馬くん。不可逆な変化だよ。論理的な勝利は、感情的な敗北(=変化)によって初めて保証されたんだ。君は、変わるという最高の効率を選んだの」

春馬は、反論の言葉を持てなかった。彼女は、彼の最も隠したい本音を、彼の論理を使って解体し、新しい真実として突きつけてきた。


蒼奈は、無言で動揺する春馬に、一歩近づいた。その距離は、二人三脚で最高の効率を生み出した、極めて個人的な距離だった。

「さあ、春馬くん。研究は次のフェーズに移るよ」


「これまでは、体育祭という制御された環境での実験だった。でも、私たちの研究は日常へと続くよ」


「二人三脚で、あなたは私に全てを預けて、最高の喜びを得た。依存=効率だと認めたでしょう?」

彼女は、春馬の論理的な依存を、より個人的な関係へと強引に移行させようとした。


「これからは、日常という最も予測不能な環境で、私に、もっと感情を預けて。裏切られるリスクも喜びのリスクも、私たち二人で引き受ける。それが『感情の交換』の日常化だ」


春馬のトラウマが警告を発する。感情を日常で他者に委ねることは、最も危険な行為だ。


しかし、論理的な勝利によって書き換えられた彼の新しいシステムは、「蒼奈の提案は、幸福度の最大化に貢献する可能性が最も高い」と演算した。


「……分かった、若宮。ただし、それは『日常の幸福度を最大化する』という論理的な目的のための高リスクな研究としてのみ、受け入れる」


春馬は、自身の論理的な安全地帯から一歩踏み出し、蒼奈という予測不能な変数と、日常での感情的な交流という最も危険な契約を結んだのだった。二人の関係は、ここにきて不可逆的な変化を迎えた。

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