第五十四話「体育会⑩」
第五十四話公開中!
男子生徒と女子生徒が論理的な瓦礫と化して教室から逃げ去った直後、春馬は乱れた呼吸を論理的な演算で強制的に落ち着かせ、無機質な表情で再びロープの補修作業を再開した。
彼の指先は震えていたが、それは物理的な疲労だと彼は自分に言い聞かせた。彼の心には、論理的な勝利の裏側でトラウマの毒が回り始めた苦痛が渦巻いていた。
その時、教室のドアが開き、若宮蒼奈が静かに入ってきた。彼女は春馬の硬直した背中と、机の上に残る張り詰めた空気を観測した。
「春馬くん、作業お疲れ様」
春馬は一瞬、手が止まった。彼女が「春馬くん」と呼ぶ声は、彼の論理的な防御壁を通り抜けてくる。
「若宮か。俺は論理的な義務を遂行しているだけだ。君も効率的な準備に移れ」
蒼奈は春馬の硬質な論理の壁を無視し、彼の隣に立った。彼女の視線は、春馬の歪んだ口元の残像を捉えていた。
「春馬くん、本当にすごいと思ったよ。あの四人を完璧に論破するなんて。君の論理は、純粋な憎悪と嫉妬に対して絶対的な優位性があるね」
「でもね、私、初めて見たよ。君があんなに苦しそうなのに、笑ったのを」
春馬のロープを結ぶ手が、今度こそ完全に止まった。「空虚な笑い」という、論理システムが「緊急防御行動」として分類した非論理的な出力結果を、蒼奈が正確に観測していたという事実は、彼の防御壁を内側から崩壊させた。
「……笑いではない。それは論理的な勝利を確信した際の生理的な反応に過ぎない。君は感情的な憶測をするな」
春馬は激しく拒否したが、彼の精神的な苦痛は限界に達していた。その瞬間、彼の論理が最も否定してきた感情――他者への依存と、助けの要求――が、苛立ちとなって噴き出した。
「……見ていたなら、なぜ割って入ってあいつらを止めてくれなかったんだ?」
それは、論理的な防御を破られ、誰かにその場を収めてほしかったという、春馬の最大の弱さであり、蒼奈への信頼の極端な裏返しだった。
蒼奈は、春馬の助けを求めるような本音を、感情的に慰撫するのではなく、研究者として論理的に受け止めた。
「ごめんね、春馬くん。私が入らなかったのは、『論理的な観測』を優先したからだよ。君の防御システムが、純粋な悪意に対してどう機能するかを正確に知る必要があったの」
「そして、解析結果が出た。あなたのシステム、論理的には勝利したけど、最終出力に致命的なエラーが出ているよ」
「論理的に考えてみて。あなたのコアロジックは『悲しみを避ける=楽しみを排除する』。昨日の『空虚な笑い』は、感情を殺すことで、悲しみという損失を排除した。しかし同時に、喜びという最大の利益も自ら排除してしまった」
「あなたは、論理的な勝利を収めながら、『楽しさ』という最高の効率を自己損失させたんだ。論理的な勝利のコストが、感情的な孤独だった。これは『幸福度の最大化』という私たちの研究の大前提と、自己矛盾を起こしている」
春馬の論理システムは、反論の余地がない事実を突きつけられ、沈黙した。論理で他人を粉砕した結果、自分の論理に最も大きな穴が開いていたのだ。
「解析結論:春馬くん。あなたの論理には、『喜びを伴う不確実性』という新しい変数の投入が緊急で必要だよ。そして、その変数を投入するのは、今だ」
蒼奈は、春馬の硬直した腕を優しく引き、ロープの補修作業を終了させた。
翌朝。抜けるような青空の下、グラウンドは予測不能な感情の質量で溢れかえっていた。歓声、熱気、砂埃、そして無数の生徒たちの興奮という非論理的なエネルギーが渦巻く。
春馬にとって、この空間は極度のノイズ発生源であり、処理すべき高リスク環境だった。彼の心には、昨日の論理的な敗北(自己矛盾)が重くのしかかっていた。
その中で、蒼奈は周囲の歓声に溶け込むような明るい笑顔を浮かべ、春馬の手を取った。
「さあ、春馬くん。観測を始めようよ。二人三脚の論理的な勝利と、予測不能な感情を共有してこそ、最高の効率が出ることを証明するよ」
春馬は、彼女に手を引かれるまま、感情という嵐が吹き荒れるトラックへと足を踏み入れた。彼の心臓は、競技への緊張か、それとも予測不能な彼女への恐怖か、激しく打ち鳴らされていた。彼の論理は、新たな変数の投入を義務として受け入れながら、その予測不能な結果に戦慄していた。




