第五十三話「体育会⑨」
第五十三話公開中!
体育祭前日。放課後の教室は、雑然とした熱気と準備の途中の道具で満ちていたが、今はほとんどの生徒が帰宅し、静寂に包まれていた。箕島春馬は、窓際の一番後ろの席で、大縄跳びのロープの補修作業を一人で請け負っていた。
彼の論理は、集団への貢献を幸福度最大化のための不可欠なステップとして処理し始めていた。
「(演算中:このロープの摩耗箇所を補修し、切断のリスクを0.5%削減する。これは、明日の集団のパフォーマンスと自己の見返り(喜び)を論理的に担保する行為である)」
彼は、蒼奈によって「優しさ」を論理的な義務として組み込まれたにもかかわらず、集団の中にいることの最大のリスクを避けるため、最も効率的で孤独な作業を選んでいた。彼のシステムは、依然として他人を信じることの危険性を排除できていなかった。
そこに、彼の論理の安全圏を脅かす存在が現れた。クラスの男子生徒二人と、女子生徒二人が、春馬を囲むように教室に入ってきた。彼らの視線は、体育祭前の高揚とは異質な、冷たい感情を伴っていた。
「おい、箕島。お前、二人三脚、若宮と組むんだってな」
その言葉を聞いた瞬間、春馬の心拍数が跳ね上がった。これは運動負荷ではなく、高リスク状況下でのストレス反応だ。
「まさか、あの若宮さんが地味で暗い箕島を選ぶとはな。クラスの代表競技として恥ずかしい」
「信じられない。蒼奈さんのブランドが落ちるわ。あんな目立たない人と組むなんて」
「ねぇ、何か裏があるんじゃない?箕島が何か弱みを握ったとか、蒼奈さんに媚びたとか?」
言葉の刃は、春馬の最も脆い部分に突き刺さった。彼の脳裏に、小学校時代からのいじめ、裏切り、「雑巾」というあだ名で呼ばれた屈辱が、高解像度でフラッシュバックした。女性の悪意と、論理のない集団的な非難というトラウマのコアが、完全に同期したのだ。
「(最大警告!女性の悪意と論理のない批判!非難と侮辱の再来!観測不能な憎悪が、過去の裏切りと完全に同期した!論理システム、緊急防御モードへ移行!)」
彼らの「論理のない悪意」は、春馬の論理システムをフリーズさせた。憎悪や嫉妬は、幸福度の公式でも損失の公式でも、分類不能な純粋な毒だったからだ。
精神的な苦痛が限界に達した瞬間、春馬の防衛本能が作動した。それは、感情の介入を防ぐための最終手段として、SNSレスバトルで研ぎ澄まされた「感情の強制的な隔離」だった。
春馬は、作業していたロープから手を放し、ゆっくりと顔を上げた。口元を、感情を一切含まない、無機質で空虚な笑みに歪ませた。
「くくっ……くくくく……」
その不気味な笑いは、彼ら四人の攻撃的な感情を、混乱に変えた。
春馬は、笑いを収め、SNSの論壇に立つ時と同じ、冷徹な論理の鎧を身に纏った。
「論点、および諸君の発言の論理的妥当性を解析する。諸君の批判は、全て感情的なノイズであり、客観的な事実に一切基づかない」
① 男子生徒への論破:「データと効率」による殲滅
「まず、男子生徒二名。君たちの批判の前提は『俺と若宮のペアはクラスの利益に反する』という主観的な予想に基づいている。だが、その予想は既に過去のデータによって完全に破綻している」
「我々は二人三脚の練習で、クラス平均を遥かに上回る最速タイムを記録している。さらに大縄跳びでは、俺たちの論理的な回転リズムが、クラス記録を更新させた。これは論理的な効率の最大化に成功している客観的なデータだ。君たちの感情的な予想と、実際のデータが著しく乖離しているのは、なぜか?」
「それは、君たちが論理ではなく『個人的な嫉妬』という非効率な感情で物事を判断しているからに他ならない。嫉妬は、君たちの認知機能を麻痺させ、正しい判断を妨げる最大のリスクである。非効率な感情を抱えた人間の無価値な発言に、俺の時間を浪費する価値はない」
② 女子生徒への論破:「自己矛盾」と「劣等感の投影」による瓦解
「次に、女子生徒二名。君たちの『若宮ブランドの毀損』という批判は、論理的に見て最も悪質だ」
「まず、『ブランドが落ちる』という批判。若宮蒼奈が自らの意思で、論理的な理由に基づき、効率的なパートナーとして俺を選んだ。君たちが若宮のパートナーである俺を貶める行為は、若宮自身の判断力を間接的に侮辱し、若宮の価値を下げる行為だ。君たちは若宮の味方を装いながら、若宮の判断と意思を同時に否定している。これは自己言及の矛盾であり、論理的な瓦礫だ」
「あなたが何か弱みを握ったんでしょう!?」
「『弱みを握った』という君たちの主張には、論理的な証拠が皆無である。君たちが提示できるのは、根拠のない憶測と、個人的な願望のみだ」
「さらに解析する。君たちは若宮の優位性を認めている。にもかかわらず、その若宮が選んだ俺を受け入れられないのは、若宮の行動が君たちの狭い価値観から逸脱したからだ。つまり、君たちの批判の根源は、若宮への懸念ではなく、『自分たちの予想や価値観が外れたことへの苛立ち』である」
「結論。君たちの『裏がある』という主張は、論理的な事実に基づかず、自分たちが持つ劣等感や無価値感を、他人(俺)への非難という形で投影しているに過ぎない。君たちの言葉は、外部への情報発信ではなく、君たち自身の精神的弱さの告白データである」
春馬の冷徹な論理の刃は、四人の感情的な攻撃を完全に打ち砕いた。彼らは感情という武器を論理で跳ね返され、反論の言葉を完全に失い、沈黙のまま教室から逃げるように退出した。
春馬は再び、口元を歪ませた、空虚な笑みを浮かべた。その笑いは、論理的な勝利の証であると同時に、トラウマから自己を守るために感情を殺したという孤独な防御反応だった。
「(演算結論:論破成功。論理的な防御は、感情的な攻撃に対し絶対的な優位性を持つ。勝利の喜びを観測。だが、この笑いは……若宮が教えた『優しさ』とは真逆の、論理ではない)」
春馬はロープの補修を再開した。彼が手に入れたのは、論理的な優位性という見返りと、トラウマの再燃という代償だった。彼の新しい論理は、集団のリスクに対しては勝利したが、個人の悪意に対しては、古いトラウマによってしか防御できないという致命的な欠陥が露呈したのだった。




