表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/59

第四十二話「母による再定義」

第四十二話公開中!


若宮家での二時間におよぶ「非論理的な優しさ」への曝露を終え、春馬は自室のドアを静かに閉めた。室内は、春馬の『孤独の最適解』が作り上げた通りの、無機質で清潔な、絶対的な安全圏だった。しかし、彼の体は、その最適解を拒否しているかのように硬直していた。

春馬はまだ、蒼奈が選んだ水色のパーカーを脱いでいなかった。それは、まるで「非論理的な優しさ」というウイルスに汚染された、観測の証拠品のように彼にまとわりついていた。


「(帰還。安全圏への復帰。リスク値はゼロに収束。これで良いはずだ)」

彼は、自らの机に向かい、『若宮蒼奈 論理的解剖記録(Dissection Record)』を開いた。ペンを握る指先が、微かに震えていた。


「データ更新。

場所:若宮家リビング。特記事項:「家族」というカテゴリーに分類される無償の優しさ(K_{unpaid})を観測。対価、裏切りの意図、論理的な要求のいずれも検出されず」


彼は、手が止まった。このデータが、既存のどのカテゴリーにも分類できないことに気づいたのだ。最も近い「女性からの親切」というカテゴリーは、彼のトラウマデータにより、『裏切りのリスク100%』として分類されるはずだった。だが、目の前の事実はそれを否定していた。


「(演算エラー!若宮(麗華)の大学選択の論理:『なんとなく楽しそうだから』。これは非効率極まりないが、彼女の生活の幸福度(U_{Rika})は高いと観測される。「非効率=高幸福度」という矛盾した結果が導出された)」

春馬の頭の中で、これまで彼を支えてきた「悲しみゼロ=最適解」という根本的なロジックが、ガリガリと音を立てて崩れていくのを感じた。


「(結論:俺の『孤独の最適解』は、生存の解としては成立するが、『幸福』の解としては、最も不完全なものだった)」

彼が、自分の論理的な敗北をノートに書き記した瞬間、ドアがノックされた。



「春馬。入るわよ」


母・春那は、部屋に入ってきた。彼女の視線は、まず春馬がまだ脱いでいない水色のパーカー、そして机の上に広げられた解剖記録ノートに向けられた。春那は、春馬の論理の根源、そしてトラウマの全てを知る、世界で唯一の存在だ。彼女は、息子が決定的な転機を迎えたことを即座に察知した。

「ずいぶん、熱心に観測記録をつけているのね。蒼奈ちゃんとの研究活動は、予想外の異常値を生み出したようね?」


「……母さん。俺の生存戦略の論理は、不完全であることが証明された。若宮蒼奈、そして彼女の姉である若宮麗華のデータが、俺のシステムを根本から否定している」

春馬の言葉は硬かったが、その声の奥底には、長年の防御壁が崩壊した後の、深い戸惑いが滲んでいた。


「そう。それは、素晴らしい進展だわ。春馬、あなたが今まで信じていた『論理』は、『箕島春馬の、悲劇的な過去における生存』の最適解だった。でも、『箕島春馬の、幸福な未来』の最適解ではないわ」


春那は静かに春馬の隣に腰かけ、その水色のパーカーに触れた。

「あなたにとって『幸福度(U)』の計算式は、ずっと『損失をゼロにすること』だったでしょう?U =L(損失の回避)。でも、人間はそう簡単じゃないわ」


「じゃあ、正しい論理はなんだ?俺は、感情という非効率な変数に頼ることはできない」


春那は優しく、しかし明確に、新たな論理的なフレームワークを提示した。


「『幸福』の論理は、ゼロからの獲得よ。

U = G - R(利益マイナスリスク)。あなたが『楽しさ』という利益(G)を最大化しようとするならば、『裏切り』や『傷つくこと』というリスク(R)を非ゼロとして、受け入れなければならない」


「あなたが若宮家で観測した『無償の優しさ』は、まさにリスクを許容した者だけが獲得できる、最大の利益よ。そして、そのリスクを共有することで、喜びは倍増する。蒼奈ちゃんが求めているのは、まさにその共有の幸福よ」

春馬の目は大きく見開かれた。『損失ゼロ』という絶対的な信念が崩れ去り、『リスク許容度と共有の幸福』という、より高度で、より危険な新しい論理が、彼のシステムにインストールされたのだ。


「リスク……を、許容する……。それが、幸福の最適解……?」


彼の口から出た言葉は、もはや「研究者」としての冷静な解析ではなく、「人間」としての戸惑いと、未来への微かな希望を含んでいた。春那は、息子が『生存』から『幸福』へと、論理的なステージを上げたことを確信した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ