第四話「非効率な感情」
最後のHRが終わり、教室は一気に静寂を取り戻した。大半の生徒は、マドンナ・若宮蒼奈と孤立者・箕島春馬という異様な組み合わせを遠巻きに見ながら、足早に帰宅していった。
俺は鞄からノートPCを取り出し、いつものようにSNSの論争空間へと精神をダイブさせようとした。そこだけが、俺の論理が絶対の真実となる唯一の場所だ。論理的な再構築が急務だ。
だが、隣の絶対的マドンナは、帰らない。
「ねえ、春馬くん。研究の時間だよ」
蒼奈は無邪気に微笑んだ。太陽光が差し込む窓際の席。誰もいない教室で、彼女の笑顔はあまりに眩しく、そして俺の論理の防御を脅かすには十分すぎるほどだった。
「俺は、君の幼稚な『研究』とやらに付き合う義務はない。ここは、俺の論理的な再構築の場だ。非効率な活動は拒否する」
俺は不敵の笑みを浮かべ、冷ややかに言い放った。
心臓は警戒レベルを維持している。
「非効率、かあ」
蒼奈は俺の言葉を否定せず、ただ楽しそうにオウム返しした。
「でも、この前の研究結果で分かったでしょ? 春馬くんは『負けの恐怖』に支配されている。だから、今日の研究テーマは、そこから春馬くんを解放する方法だよ」
彼女はそう言うと、おもむろに鞄から色鉛筆と、適当な紙を取り出した。
「負けの恐怖から解放するには、まず『勝ち負けが存在しない活動』から始めるべきだよね。論理的には無意味で、非効率的。感情にしか訴えかけない、そういう活動!」
「時間の無駄だ。そんな破綻した活動に、俺が付き合うメリットはゼロだ」
「あるよ! 非論理的な感情のデータを、春馬くんの脳内に新たにインプットできる!」
蒼奈はにっこりと笑い、俺の机に紙を広げた。
「今日の研究課題は、『お絵かきしりとり』ね!」
――オエカキシリトリ?
俺の思考回路に、その幼稚で非論理的な単語が入力された瞬間、強烈なエラー音が鳴り響いた。
【警告】:活動内容:お絵かきしりとり。
論理的価値:ゼロ。感情的価値:極小。
参加義務:無し。
【結論:拒否が最適解。】
「拒否する! なぜ俺が、時間の浪費にしかならない感性ベースの遊びに参加する必要がある?」
「だって、これって負けがないよ? おかしな絵を描いても、間違った単語になっても、誰も罰しない。誰かに勝つ必要もないし、論理的な手順も存在しない。春馬くんが一番安心できる遊びでしょ?」
蒼奈の言葉は、まるで子守唄のように優しかった
が、その内容は俺の論理の砦を抉り取るナイフのようだった。
「……幼稚な論点すり替えだ」
「いいから! 私が先ね。『りんご』!」
蒼奈は迷いなく、赤い色鉛筆で丸い図形を描いた。それは見事な、美術の教科書から飛び出してきたような『りんご』だった。
「はい、春馬くん、『ご』から始まる絵を描いて!」
俺は腕を組み、不敵の笑みを浮かべたまま、頑なに動かない。
「繰り返すが、俺は拒否する。俺の時間は、君のような非論理的な存在に浪費されるほど安価ではない」
蒼奈は、俺の冷たい拒絶にも一切怯まなかった。それどころか、青い瞳を瞬かせ、俺の手元に広げた紙を指差した。
「じゃあ、このまま何も描かずに時間が過ぎたら、どうなるの? 誰も怒らないし、誰も春馬くんを馬鹿にしないよ? それでも春馬くんは、『何も行動しなかった自分』を、論理的に罰するんでしょ?」
――動揺が、走る。
その通りだ。他者に負けること以上に、俺にとって恐ろしいのは、『自分の行動の非効率性』や『論理的な怠惰』だった。何も描かないという行為は、論理的結論の放棄であり、自己肯定の放棄を意味する。
俺は舌打ちしたい衝動をこらえ、最も細いシャープペンを握りしめた。絵を描くという非論理的な行為を、俺は『蒼奈の論理を証明するための実験』という大義名分で、無理やり論理化する。
「……分かった。実験として、最低限の時間だけ付き合おう。『ご』……『ゴリラ』だ」
俺が描いたのは、もはや絵とは呼べない、骨格図のようなゴリラだった。完璧な論理的なデッサンを心がけた結果、感情も、個性もゼロの、無機質な図形が紙に載った。
「うわあ! すごいね春馬くん! 骨格がしっかりしてる!」
蒼奈は心から感動したように言った。嘲笑は、一切ない。
「次は『ら』だね! じゃあ、『らっきょう』!」
蒼奈が描いたのは、丸くて可愛い『らっきょう』だった。その絵は、先ほどの俺の無機質なゴリラと並ぶと、あまりにも感情豊かで、非論理的だった。
「はい、春馬くん、次は『う』だよ! 『う』はなんだろうね?」
俺はまた腕を組み、シャープペンを握りしめた。描かなければ、自己否定となる。だが、『う』から始まる論理的に描きやすい動物は?
「……『ウミガメ』だ」
俺が描いたのは、甲羅の六角形と四肢の構造を忠実に再現した、これもまた感情ゼロの幾何学的なウミガメだった。
蒼奈は、俺の絵をじっと見つめ、ふと笑った。
「春馬くん、今、面白いでしょ?」
「な、何を馬鹿な! この行為に、面白いという非効率な感情を抱く論理的な必然性は存在しない」
俺は即座に否定した。しかし、蒼奈の瞳は、俺の不敵の笑みの奥を、正確に見抜いていた。
「だって、目が笑ってるもん。ほら、口角じゃなくて、目が笑ってるよ?」
彼女の言葉に、俺は思わず息を呑んだ。極限の苦痛を乗り越えるために身につけたはずの歪んだ高揚感ではない。蒼奈の無邪気な好奇心の中で、俺は確かに、心の底からの『面白さ』という、最も非論理的な感情を、ほんのわずかだが感じてしまったのだ。
「……っ!」
俺は何も言い返せず、シャープペンを強く握りしめる。
蒼奈は、今日の研究が成功したことを確信したように、満足げに頷いた。
「よし!今日の研究はここまで。春馬くん、『負けの恐怖がなくても、人間は楽しいと感じられる』
っていう新たなデータが取れたね!」
蒼奈は立ち上がり、帰りの準備を始めた。そして、扉を出る直前、振り返って俺に言った。
「今日の私の絵、私の存在意義の証明にはならないけど、私は楽しかったよ! じゃあ、また明日ね、研究対象さん!」
俺の論理の砦は、感情的な『楽しさ』という、最も無意味な破壊兵器によって、さらに深く抉られた。
第四話を公開しました。
第五話制作中です!
今は誰かに見てもらうことが目標です。
後書きって何書けばいいんですか?




