第二十五話「進路希望調査表」
第二十五話公開中!
朝のホームルーム前、蒼奈から『進路希望調査』という「無償の期待」が込められた高リスクな預かり物を受け取った瞬間から、春馬の脳内は「絶対防衛システム」へと切り替わった。
「(これは、純粋な論理の問題だ。俺の『再現性のある行動』という能力を検証するための試金石である。失敗は、俺自身の論理の否定に直結する)」
彼は、封筒を制服の内ポケット、最も体の中心に近い位置に厳重に格納した。この位置は、物理的な衝撃や盗難リスクを最小化する、論理的な最適解だった。彼は、預かり物を「彼女の未来のデータ」として抽象化することで、「女性の持ち物」という感情的なトリガーを回避しようとした。
しかし、彼の身体は、「裏切りへの恐怖」という根源的な基幹論理に支配されていた。
春馬の自己観測データ:
授業中、内ポケットに触れる回数:平均1分間に3回。
席を立つ際の周囲への警戒レベル:過去最高を記録。特に女子生徒の移動に対し、警戒度を50%増。
昼食時: 一人で食事をする『孤独の最適解』の場所で、常に片手で封筒を押さえるという、非効率的な動作を強いられた。
「(くそ。無償の期待という変数は、俺の効率的な日常に、尋常ではないコストを発生させている。しかし、このコストは、『信頼性』という予測不能な概念をデータ化するための必要経費である、と定義する)」
彼は、この重圧を「研究の対価」として無理やり処理することで、逃避という非効率な選択肢を排除した。
午後になり、次の授業の準備のため、春馬は内ポケットから封筒を取り出した。長時間にわたり体を動かしたため、封筒にわずかな折れ曲がりのリスクが発生しているのを確認した。
「(データ汚染は許容できない)」
彼は、教師の視線がないことを確認し、封筒の中の書類を最小限だけ取り出し、折れがないか確認した。その瞬間、彼の視界に、書類の上部に明確に記入された「進路希望調査」の文字と、蒼奈の記入欄の具体的なデータが飛び込んできた。
記入項目: 現在の希望進路
蒼奈の記入: 大学進学
希望大学名:宙知大学
学科名: 心理行動学部 認知論理学科
学年: 2年
春馬の思考回路が、一瞬静止した。
「(データ異常。現在、俺たちは二年である。二年という期間で、既に進学という明確な方向性、そして具体的すぎる分野を決定している。俺はまだ、『孤独の最適解の継続性』という抽象的なテーマしか持っていない)」
春馬にとって、二年という時点で進路を確定させている蒼奈の行動は、『女子』の『計算』や『悪意』といった感情的な変数とは完全に分離された、純粋な『計画の効率性』として観測された。
彼は、トラウマ以来、「女性の判断は感情的で、非効率」という前提で世界を構築していた。しかし、目の前のデータは、その前提を揺るがすものだった。
「(若宮蒼奈という研究対象は、感情的な変数は予測不能だが、未来に対する論理的な計画性は、俺の基準値を遥かに上回る。これは、「人として」、評価すべき高効率なデータだ。女子であるか、脅威であるかという分類とは無関係に、その論理的優秀性を認めざるを得ない)」
春馬の中で、蒼奈の評価は「予測不能な脅威」のラベルに、「高精度な論理演算装置」という賞賛に値する新しいラベルが追加された。この感心は、彼女の行動の再現性(信頼性)への評価を、無意識的にポジティブな方向へ誘導し始めた。
放課後の教室。春馬は、内ポケットから書類をゆっくりと取り出した。彼の絶対防衛システムは、1ミクロンのミスもなくミッションを完遂していた。
「……これだ。紛失、汚染、いずれの事象も発生しなかった。『予測不能な状況下での行動の再現性』は、データ上、100%の結果となった」
春馬は、まるで研究結果の報告書を手渡すように、書類を蒼奈に差し出した。
蒼奈は、書類を受け取る前に、春馬の疲労困憊した様子と、封筒が一瞬たりとも手元から離れていなかったことを察知した。彼女は、春馬が背負った「無償の期待」という重圧を理解していた。
「春馬くん。本当にありがとう。私、春馬くんを信じて良かったよ。論理的な根拠はなかったけどね」
蒼奈は、「ありがとうございます」という言葉の前に、心からの達成感に満ちた笑顔を春馬に向けた。
この笑顔は、春馬が最も警戒する「計算された優しさ」とは、周波数帯が全く異なる、純粋な喜びのデータだった。
「(裏切りのコストはゼロ。そして、ポジティブな感情という利益が発生した。『信頼性』の仮説は成立したのか?)」
春馬が解析を深めようとした、その矢先。蒼奈は、春馬の内心に『計画性』という新たな評価軸が生まれたことに、無自覚ながらも気付いていたかのように、次の質問を投げかけた。
「ねえ、春馬くん。私の進路希望を見たのでしょ?」
「(ぐっ)……ああ。偶然、視界に入っただけだ」
「ふふ。偶然、ね。じゃあ、聞くよ。『孤独の最適解』という論理を追求する研究者である春馬くんにとって、自身の未来を最も効率的に導くための進路の論理的な最適解は、既に計算済みなの?」
蒼奈の問いは、春馬の評価軸(論理的な計画性)を逆手にとり、彼の『孤独の最適解』という防御論理の「未来の持続性」という、最も重要な弱点へと、鋭く突き刺さった。春馬は、自身の「論理」を問われるという、新たな戦場へと引きずり込まれた。




