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第二十四話「信頼」

第二十四話公開中!


図書館での共同作業から一夜明けた教室。春馬の席の隣。


春馬は、蒼奈の「協力の定着」という論理的な成功を反芻していた。それは、「ポジティブな感情は、裏切りへの恐怖というネガティブな基幹論理を一時的に上書きできる」という仮説の強力な証拠だった。しかし、その証拠は「一時的」でしかなかった。彼の論理は、いつ裏切られるかわからないという恐怖から解放されていない。


「おはよう、春馬くん!研究は順調だね」

蒼奈は、早速タブレットを取り出し、春馬に向けて画面をタップした。画面には、『感情の選別・定着プロセス』という見出しの下に、次のフェーズが示されていた。


フェーズ2:予測不能な状況下での行動の再現性


(『信頼性』の検証)


「信頼性だと?」


春馬の体内で、警戒レベルを示す警告音が一気に上昇した。彼の論理回路の中で、『信頼』という単語は、「計算に基づいた優しさ」と「衆目の前での屈辱的な排除」という、小学校時代のトラウマと直結する絶対的な禁止ワードだった。


「無駄だ、若宮。信頼という概念は、非論理的な感情に依存する。それは再現性のないブラックボックスであり、研究の対象たり得ない。予測不能な変数に論理は適用できない」


春馬は、普段の冷静なトーンを保ちつつも、その言葉には強い拒絶の意思が込められていた。彼の脳内では、「信頼=裏切りの準備」という回路が激しく作動している。


「ふふっ。春馬くん、また論理的な逃避を試みてるね」

蒼奈は、春馬の無意識の抵抗を、いつものように論理的な課題として受け止める。


「私が言っているのは、感情としての『信頼』ではないよ。システムとしての『信頼性』だよ。例えば、私が春馬くんに特定の行動を要求したとき、春馬くんが外部変数(周囲の視線、時間、気分、他者からの悪意など)に影響されることなく、その行動を再現できるかどうか。これこそが、究極の最適解の行動原則を導く、論理的に最も効率的な研究テーマだと思わない?」


蒼奈は、「感情」という言葉を避け、春馬が受け入れざるを得ない「システム」と「再現性」という論理で、春馬の核心を突くテーマを導入した。彼女は、無自覚にも春馬の「計算と裏切り」というトラウマに、「再現性のある行動」という対抗論理を突きつけている。


「(くそ。蒼奈は俺のトラウマを知らない。だが、彼女の論理的な定義は、俺の『裏切りへの恐怖』という基幹論理と完全な形でパラレルになっている。彼女の言う『再現性』は、『裏切りの確率が限りなくゼロに近いこと』を意味している。拒否すれば、俺の論理的な好奇心と、新しい『利益最大化』の仮説検証を止めることになる)」


春馬は、自らの論理的な好奇心が、女性不信という自己防衛本能を上回り始めていることを自覚し、苦悩した。最も回避すべき概念が、最も効率的な論理として眼前に提示されていた。


その日の昼休み。蒼奈は屋上ではなく、人気のない階段の踊り場で、姉の麗華と電話をしていた。


「フェーズ1の『協力』は成功したよ。彼はポジティブな感情を利益として処理することを承認したの。でも、次のテーマ『信頼性』を拒否している。『再現性のないブラックボックス』だって。どうすれば、彼の論理的な防御を破れるのかな?」


「ふーん。やっぱり論理の塊ね、あの男の子。でも、彼はまだあなたの優しさを『計算』で処理しようとしているわ」


麗華の声には、鋭い分析と同時に、ある種の興味が込められていた。


「蒼奈、あなたのアプローチが理論的すぎるわ。あなたは『システム』として春馬くんを見ているけど、彼はあなたを、いつ裏切るか分からない『予測不能な新しい脅威』として見ている。システムとシステムの対話じゃ、『悪意のなさ』というあなたの最大の武器は永遠に入ってこない」


「でも、感情的なアプローチは、効率を欠く。春馬くんの裏切りへの警戒レベルを不必要に上げるだけだわ」


「だから、『予測不能な期待』をぶつけるのよ」


麗華は、蒼奈の論理の抜け穴を指摘する。


「春馬くんの最適解の根源は、『裏切りのコスト計算』でしょう? なら、計算できないものを投げればいい。例えば、『もし、これが失敗したら、私には大きなデメリットが発生する。でも、私は春馬くんが成功してくれることを、論理ではなく、ただ期待している』という、彼の計算の対象外にある無償の期待という変数」


「『無償の期待』……これは、春馬くんが最も論理的に警戒している『計算された優しさ』という防御定義と、作用が真逆になると、お姉ちゃんは言いたいんだね」


「そう。春馬くんは、裏切りのコストは計算できる。でも、人の純粋な『期待』という無償の価値を、どう処理していいか分からないの。あなたの『悪意のなさ』という無垢さが、彼の論理の致命的なバグになる。それが、予測不能な楽しさの究極の証明じゃない?」


蒼奈の瞳に、新しい研究テーマの光が灯った。『無償の期待』。それは、彼女の「悪意のなさ」という最大の武器を、最も効率的に春馬の心に打ち込む非論理的な最適解だった。


翌日。朝のホームルーム前。蒼奈は、春馬に対し、『信頼性』の研究活動の最初の試行を申し出た。


「春馬くん。私ね、今日、進路のことで先生に提出しないといけない大事な書類があるんだけど」


蒼奈は、封筒を一つ取り出した。中には、彼女の未来の選択を左右するであろう、重要な進路希望調査票が入っているようだった。

「これを、今日の放課後まで、春馬くんに預かってほしいの」


「預かる? 意味が分からない。そんな非効率なリスクを、わざわざ俺に負わせる必要はない。その書類を紛失するリスクは、お前自身が負うべきものだ」

春馬は、書類の紛失というネガティブなリスクと、それを回避する労力というコストを瞬時に計算した。


「だって、私は忘れっぽいから。でも、春馬くんは、『物事を管理する能力の再現性』については、クラスで最も高いデータを持っている。だから、論理的に見て、春馬くんに預けるのが、この書類の安全性を高める、最も効率的な最適解なの」

蒼奈は、論理で春馬の防御を包囲する。


「自己の責任を他者に転嫁するな。俺の責任が増加する。これは純粋なコスト増であり、非効率だ」


「確かに。でも、もし春馬くんがこれをなくしたら、私、大変なことになるの」


蒼奈は、計算上のリスクではなく、感情的な切実さを混ぜ込んだ。そして、麗華から教わった、最後の「無償の期待」という変数を投入する。


「でもね、春馬くん。私は、春馬くんが絶対に、論理的に、これを守り通してくれるって、何となく期待しているの。根拠はないけど。これが、予測不能な期待(信頼性)の試行だよ」


彼女は、「悪意のなさ」を最大限に発揮した純粋な期待の視線を、春馬に真っ直ぐ向けた。

春馬の脳内の女性不信の基幹論理が、激しく警鐘を鳴らし始める。


「(無償の期待……? 彼女の優しさは計算ではないのか? もし、俺がこれを失くしたら、彼女は裏切られた痛みを知る。それは、俺がかつて味わった孤独の最適解の失敗、痛みの連鎖そのものだ。裏切る側に回るという、計算外の恐怖)」


春馬は、初めて、裏切りのコスト(ネガティブな感情)を自分自身が負担するという、計算外の状況に追い込まれた。拒否すれば蒼奈の論理的な期待を裏切ることになり、受け入れれば全責任を負うことになる。


「……わかった。預かろう。ただし、これは純粋なデータ収集のプロセスだ」


春馬は、自らの意思で、『裏切りのリスクの承認』という、最も危険な行動を受諾した。蒼奈の無償の期待という変数が、春馬の女性不信の壁の最も古い部分を、初めて直接、計算外の重圧として揺さぶった瞬間だった。

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