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第百十八話「テスト週間㉔」


レジで会計を済ませた春馬の手には、先ほど蒼奈が熱烈なプレゼンテーションを経て選定した、あの重厚な戦略的学習書が握られていた。二人はそのまま、書店の奥にあるエレベーターに乗り、屋上テラスへと向かった。

自動ドアが開くと、そこには都会の喧騒から切り離された、静謐な空間が広がっていた。西の空には、燃えるような茜色の残光が街並みを縁取り、ポツポツと街灯が灯り始めている。微風が春馬の髪を揺らし、熱を帯びた脳を優しく冷却していく。


「……ここなら、視覚的なノイズも少なく、戦略策定には最適な環境と言えるな」

春馬はテラスの隅にある木製のベンチに腰を下ろし、丁寧に袋から本を取り出した。新品の紙の匂いが、夕暮れの空気と混ざり合う。彼は膝の上に本を広げ、カバンから一冊の真っ新なノートと、愛用のシャープペンシルを取り出した。


「さて、若宮。お前の選定したこの『武器』を最大限に活用し、残された一週間足らずの時間をどう配分するか……。勝利のためのタイムチャートを確定させるぞ」


「了解! それじゃあ、軍師・若宮蒼奈、スケジュール策定会議に参加します!」

蒼奈は隣に座り、身を乗り出すようにして春馬のノートを覗き込んだ。二人の肩が触れそうな距離。しかし、今の春馬はその身体的な近さよりも、共有される「目標」への集中を優先させていた。


春馬はノートの左側に、縦軸の時間割を素早く描き込んだ。

「まず、基本原則デフォルメを定義する。登校前のリソース活用だ。朝、校門が開くのと同時に図書館へ入る。これは既に俺たちの『定数』となっている。一分一秒を惜しみ、脳の覚醒状態に合わせて重要度の高い問題を処理する」


「うん、異議なし! 朝の図書館の静けさは、最高に集中できるもんね」


「そして放課後。下校時刻を告げる最終アナウンスが流れるまで、俺たちは机に留まる。これは必須条件だ。帰宅までの移動時間における集中力の減衰を防ぐため、校内という閉鎖空間で全リソースを使い切る」

春馬のペン先が、ノートに力強い線を引いていく。朝と放課後。二人の時間が、物理的な制約の中にぎっしりと詰め込まれていく。それは、孤独だった春馬の日常に、蒼奈という「共有リソース」が完全に組み込まれた証でもあった。


「問題は、帰宅後の自宅学習だ」

春馬は少しだけ語気を強め、ノートの深夜帯に斜線を引こうとした。


「学校でのセッションを終えた後、自宅にて一日の復習と、この新刊を用いた演習を行う。……計算上、睡眠時間を四時間程度まで圧縮すれば、試験範囲の三巡トリプル・ループ完了が可能になる」

その言葉を聞いた瞬間、蒼奈は「あはは」と、どこか呆れたような、けれど温かい笑い声を漏らした。


「やっぱりね。春馬くんのことだから、そうやって深夜まで自分を追い込んで、脳をオーバーヒートさせるつもりでしょ?」


「……反論があるのか? 学習量は時間に比例する。これは単純な算術だ」


「ブブー、不正解! 春馬くん、論理的じゃないよ、それは」

蒼奈は、春馬が握っていたペンを優しく、しかし確固たる意志で止めさせた。


「いい? 夜は早く寝て、次の日に負担にならないように脳も身体も休ませる。これが鉄則。……睡眠は、ただの『休止』じゃないんだよ。昼間に詰め込んだバラバラの知識を、脳が綺麗に整理して、使える形に定着させるための『メンテナンス時間』なんだから」


彼女は、ノートの深夜帯を指差し、そこへ丸い大きな円を描いた。

「特に思考力が必要な作業……つまり、春馬くんが得意な論理的な計算や、さっき買った本でやるような高度な文章読解は、朝のまっさらな脳でやるのが一番効率がいいの。深夜のボーッとした頭で三時間やるより、朝のシャッキリした一時間の方が、ずっと解像度が高いんだから」


「(……知識の定着プロセスの最適化、か。……確かに、疲労によるエラー率の上昇を考慮すれば、睡眠によるデフラグメンテーション(断片化解消)を優先させる方が、長期的には歩留まりが良い可能性があるな……)」

春馬は、蒼奈の指摘を素直に「論理的な改善案」として受理した。


「……認めよう。俺の計画には、バイタル維持という観点が欠落していた。……二十四時には強制シャットダウンを行い、六時間の睡眠を確保する。その分、起床後の三十分に、この本を用いた『戦略的精読』を割り当てることにしよう」

「うん、そのほうがずっと『強い』春馬くんになれるよ!」


スケジュールが完成した。

ノートには、朝から晩まで、効率と休息が黄金比で配合された、完璧な「勝利の設計図」が描かれていた。春馬は満足げに鼻を鳴らし、ノートを閉じた。


「……よし、確定だ。あとは、このプラン通りに俺というシステムを駆動させるだけだ」

春馬がそう宣言すると、蒼奈はベンチに背を預け、街の灯りを見つめながら、ふふっと笑った。

「……ねえ、春馬くん。スケジュールはバッチリだけど、最後にもう一つだけ、私からアドバイスしていいかな?」


「……何だ? 学習効率に関する補足データか?」

「ううん、もっと単純で、もっと難しくて……。それでいて、すっごく他人事感満載のアドバイス」

蒼奈は、春馬の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、夕闇を反射して星のような輝きが宿っていた。


「……頑張る! ……それだけかな。あはは、ごめんね、全然論理的じゃないアドバイスで」


彼女は照れ隠しのように笑った。

だが、その「頑張る」という言葉は、これまで春馬が聞き流してきた無責任な応援とは、全く異なる響きを持って届いた。


「……頑張る、か」

春馬は、その五文字を口の中で反芻した。

論理では定義できない言葉。数値化もできず、根拠も不明瞭な、純粋な意志の表明。

しかし、これほどまでに緻密なスケジュールを組み、お互いの時間を共有し、共に高みを目指そうとしている今の彼らにとって、その言葉は最後のパズルの一編ピースのように、カチリと嵌まった。


「……若宮。その『他人事感満載のアドバイス』は、実は俺にとって、最も実装難易度が高いプログラムだ。……だが」

春馬は、買いたての本の表紙を掌で撫でた。


「……お前が選んだこの本と、お前が修正したこのスケジュールがある。……そして、何よりお前という『観測者』が隣にいる以上、俺がそのプログラムの実行に失敗することは、理論上あり得ない」

春馬は、自分でも驚くほど穏やかな、しかし強い確信に満ちた声で続けた。


「俺は、頑張る。……お前が驚くような、最高の論理的勝利を、一週間後に見せてやる」


「……うん! 期待してるよ、春馬くん」

街の灯りが本格的に輝き出し、テラスを彩る。

二人の間に流れる空気は、もはやテストのプレッシャーに怯える受験生のそれではなく、新しい世界を拓こうとする探検家たちの高揚感に包まれていた。

「……夜風が冷えてきたな。体調管理に支障をきたす前に、下山(撤収)を開始するぞ、若宮」


「はーい! じゃあ、駅まで競争……は、しないけど。明日、朝一番の図書館で、一番乗り対決ね!」

「……受理した。遅刻という不名誉な記録は、明日をもって上書きしてやる」

並んで歩き出す二人の影。

春馬の腕の中には、新しい知恵(本)が。

そして彼の心には、冷たい論理を熱く燃やすための、かけがえのない「約束」が宿っていた。

テストまで、あと数日。

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