表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

117/121

第百十七話「テスト週間㉓」


書店の隅、学習参考書コーナーの静寂の中で、春馬と蒼奈は向かい合っていた。春馬の背後には、先ほど彼が「テスト後の報酬」として心に刻んだバトル漫画の棚があるが、今の彼の意識は、目の前の少女が抱えている一冊の書籍へと完全にフォーカスされていた。


「……若宮。君がその『隠し玉』として選別した個体の正体を、いよいよ明かしてもらおうか」

春馬は腕を組み、試験官のような厳格な面持ちで問いかけた。


「君が俺という存在を多角的に観測し、その欠落を埋めるために最適だと判断した根拠……。つまり、その本の内容と、選定に至った論理的理由ロジックを、納得のいく形で提示してもらいたい」


蒼奈は、待ってましたと言わんばかりに、パッと顔を輝かせた。彼女はその一冊を胸元に抱え直し、深呼吸を一つすると、まるで格式高い学会の壇上に立つプレゼンターのような、堂々とした、しかしどこか楽しげな佇まいに切り替わった。

「いいよ、春馬くん! それじゃあ、若宮蒼奈による『箕島春馬・専用攻略本』のプレゼンテーション、開始しちゃいます!


蒼奈は、まずその本の表紙を春馬に見せた。それは、一般的な『チャート式』や『ターゲット』のような無機質なデザインではなく、チェスの駒と複雑な数式がスタイリッシュにレイアウトされた、少し厚みのある専門書に近い装丁だった。


「まず、春馬くんの現状ね。春馬くんは数学的な論理には滅法強いし、最近の勉強で英語の『構造』も完璧に捉えられるようになった。でもね、今の春馬くんが突き当たっているのは、『筆者の意図という名の不確定要素』なんだよ」


「……不確定要素だと?」


「そう。さっきの電車の翻訳対決でもそうだったけど、春馬くんは『書かれていること』を正確に訳すのは得意。でも、筆者が『なぜその言葉を選んだのか』っていう、言語の裏側にある駆け引き——つまり、相手を納得させるための『戦術』としての英語を捉えきれていないところがあるの」

春馬は、反論しようとして口を閉じ、静かに先を促した。図星だったからだ。


「そこで、この本の出番! この本はね、英語の長文を単なる『文章』として見るんじゃなくて、『筆者と読者の間で行われる心理戦ゲーム』として定義しているんだよ」

蒼奈は本をパラパラとめくり、特定のページを春馬に示した。そこには、関係代名詞や接続詞の役割が、まるで格闘ゲームのコマンドや、戦略シミュレーションの分岐図のように解説されていた。


「例えば、この章。逆接の『However』が出てきたとき、それを単に『しかし』と訳すんじゃなくて、『ここから筆者が攻勢に転じるためのターニングポイント(分岐点)』として捉える。相手の主張(A)をあえて認め、自分の主張(B)でカウンターを食らわせるためのセットアップ……。そうやって、全ての英文を『勝利のためのロジック』として解析していく手法が載っているの」


「(……なるほど。言語を記号ではなく、能動的な『戦術』として再定義しているのか。これは……俺の思考回路と極めて親和性が高い)」


蒼奈は一歩、春馬に歩み寄った。彼女の瞳には、熱を帯びた信頼の色が宿っている。


「理由の二つ目。春馬くん、さっき漫画コーナーで、あの有名なバトル漫画、見てたでしょ?」


「……っ、な、なぜそれを……。俺は完璧に気配を消して観測していたはずだ」


「あはは、隠せてないよ。春馬くんが棚の前で、今まで見たことないくらい『熱い目』をしてたもん。……だから確信したの。春馬くんは、ただの『お勉強』がしたいわけじゃない。頭脳戦とか、逆転劇とか、そういう『熱いロジック』が好きなんだって」

蒼奈は、自分の胸元にある本を、春馬の手元へとゆっくりと差し出した。


「この本は、春馬くんの大好きな『戦術』の考え方で英語を攻略していく本だよ。これを使えば、春馬くんにとって英語は、ただの暗記科目じゃなくなる。相手の思考を読み、論理で制圧する、最高にエキサイティングな『頭脳戦のフィールド』に変わるはず。……それが、私がこの本を選んだ、最大の理由だよ!」


春馬は、差し出された本の重みを、両手で受け止めた。

ずっしりとした紙の感触。それは、単なる知識の重さではなく、蒼奈が自分をどれほど深く観察し、理解しようとしてくれたかという「誠実さ」の重さだった。


「(……若宮……君というやつは……)」

春馬の脳内では、先ほど漫画コーナーで感じた「高揚感」と、今、蒼奈のプレゼンによって提示された「新しい視点」が、火花を散らして融合フュージョンしていた。


「……受理、せざるを得ないな。……お前のプレゼンテーションは、俺の感情的バイアスを最小限に抑えつつ、純粋な利益メリットを最大限に提示することに成功している。……特に、言語を『心理戦のコマンド』として定義する視点は、俺の既存の論理体系における欠落を見事に補完するものだ」

春馬は、本を抱えたまま、ページを捲る。その口角は、隠しきれない歓喜によって、わずかに、しかし確かに弧を描いていた。


「認めよう、若宮。君の選定眼センスは、俺の予測を遥かに上回っていた。……この本があれば、俺の英語の解像度は、文字通り『別次元』へとシフトするだろう」


「でしょ? 喜んでもらえてよかったぁ!」

蒼奈は、まるで自分のことのように嬉しそうに、ぴょんぴょんとその場で軽く跳ねた。


「……だが、若宮。一つだけ修正させてくれ」

春馬は、少し真面目な顔で彼女を見つめ返した。


「お前はこれを『箕島春馬・専用攻略本』と呼んだが……それは不正確だ。……これは、俺たちが共に行ってきた『共同研究』の、中間成果報告書プロトタイプと言うべきだろう。……君の介入がなければ、俺はこの本の存在意義に気づくことすらできなかったからな」


「……春馬くん……」

蒼奈の頬が、夕暮れの空と同じ色に染まる。

二人の間に流れる時間は、もはや「勉強を教える側」と「教わる側」という上下関係を通り越し、互いの才能を認め合い、高め合う「無二の相棒」のそれへと昇華されていた。


「よし! それじゃあ春馬くん、この『武器』を手に入れて、レジへ直行だね! その後、テラスで作戦会議、忘れちゃダメだよ?」


「……フン。言われずとも分かっている。……敗者は勝者の命令に従う。それが、このゲームのルールだからな」

春馬は、大切そうに本を小脇に抱え、レジへと歩き出した。

その背中には、もう迷いはなかった。

テストまでの残り数日。

蒼奈が選んだ「戦略」と、自分の中に眠っていた「情熱」。

その二つを携えて、春馬は最強の論理の戦士として、戦場(試験会場)へと赴く決意を固めていた。


「(……待っていろ、テスト。そして……待っていろ、俺の夏休み。……若宮という最強の軍師を得た今の俺に、もはや死角デッドスポットは存在しない……!)」

夕闇に包まれ始めた本屋の店内に、春馬の力強い足音が響き渡っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ