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第百十六話「テスト週間㉒」


蒼奈に連れられて到着したその本屋は、駅ビルの喧騒から少し離れた、静かな佇まいを見せていた。モダンな外装に、温かみのあるオレンジ色の照明が窓から漏れている。自動ドアをくぐり、空調の効いた静寂に包まれた瞬間、春馬は深く息を吸い込んだ。

新刊のインクの匂い、そして膨大な紙が蓄積された特有の香りが、彼の知的好奇心を静かに刺激する。


「……若宮。本格的な選定に入る前に、一つ断りを入れさせてもらいたい。……まずは、この『情報の集積地』の全体構造を俺自身の目で把握しておきたいんだ。お前の推奨するルートを辿る前に、まずは個別にスキャンさせてもいいか?」


春馬は、少しだけ居心地が悪そうに、しかし真剣な眼差しでそう切り出した。蒼奈は一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐに理解したようにニコリと笑った。


「そっか、春馬くんらしいね! 構造を把握してから攻略する、みたいな? いいよ、それじゃあ十五分後に、あの参考書コーナーの奥で集合ね。私も、春馬くんに内緒で『隠し玉』を探しておくから!」

蒼奈と別れ、春馬は一人、整然と並ぶ棚の間へと歩みを進めた。


春馬は、まず店内の見取り図を描くように足を進めた。

蒼奈が事前に言っていた通り、この店における「学習参考書コーナー」の占有率は、全体の規模からすれば驚くほど低い。奥まった一角に、厳選された数棚があるのみだ。


「(……効果的な配置だな。滞在時間の長い学習用書籍を奥に配置し、手前には回転率の高い新刊や雑誌を置く。だが……)」

さらに歩を進めると、ある一画で春馬の足が止まった。

そこは、参考書コーナーの倍以上の面積を誇る、圧倒的なボリュームの「漫画コミックコーナー」だった。


「(……やはりそうか。商業的な需要予測デマンド・フォースキャストに基づけば、漫画の供給量が参考書を圧倒するのは必然。娯楽という名の即時的な報酬リワードを求める個体の方が、自己研鑽という長期的な投資を行う個体よりも圧倒的に多いということの証明だ。……資本主義の論理からすれば、極めて健全な棚割りと言える……)」

春馬は、冷徹な分析を脳内で展開しながら、色とりどりの背表紙が並ぶ棚を眺めた。普段の彼なら、「時間の浪費だ」と切り捨て、一瞥もくれずに通り過ぎるはずの領域。しかし、今日の彼は、蒼奈との対話を経て、自分の内側にある「不確実な楽しさ」を許容し始めていた。

そして、その視線が、ある一冊の背表紙に吸い寄せられた。


「(……これは……)」


棚のゴールデンゾーンに並べられた、最新刊の装丁。

それは、世界的にヒットしている超有名なバトル漫画作品だった。

春馬の指先が、無意識のうちにその背表紙をなぞる。

それは、彼が「女性不信」という名の氷の壁を自分の中に築くよりずっと前、まだ素直に物語を楽しみ、友人と「最強の能力」「自分が登場キャラクターならどんな能力がいいのか?」「能力の命名や詳細」について語り合っていた頃に、唯一、熱中して読み耽っていた作品だった。


声には出さない。表情にも出さない。

しかし、春馬の脳内では、かつて感じたあの「熱」が、爆発的な勢いで再起動リブートしていた。


「(……この作品は、単なる暴力の連鎖ではない。……キャラクターたちの、魂を削り出すような印象的なセリフ。……理不尽な現状を、文字通り一撃で粉砕する痛快なパワー。……そして何より、絶望的な戦力差を覆すための、緻密な理論、頭脳、そして戦術。……そうだ、俺はこの作品に、かつて心酔していたのだ……)」


敵の弱点を見抜き、状況を多角的に分析し、勝機に全てを賭ける主人公。

その姿は、今の春馬が「テスト」という戦場に挑もうとしている姿と、どこか不器用な形で重なっていた。

春馬の胸の鼓動が、静かに、しかし力強く高鳴る。

それは、英単語を覚えた時の達成感とも、翻訳対決で敗北を認めた時の清々しさとも違う、もっと根源的な、子供のような「ワクワク」という名の高揚感だった。


「(……くっ、いかん。今はテスト期間中。このような高次脳機能を著しく浪費するエンターテインメントにリソースを割くべきではない。今の俺が手にするべきは、数学の問題集か、英語の精読テキストだ……!)」

春馬は、瞳の奥で激しい葛藤を繰り広げた。

棚に手を伸ばしかけては、論理的な自制心でそれを引き戻す。

しかし、その作品が放つ「物語の引力」は、今の春馬の防衛ラインを容易く突破していた。


「(……待て。……一度落ち着け。……無理に今すぐ読む必要はない。……この高揚感を、テスト後の報酬インセンティブとして設定するのはどうだ?)」


春馬は、自分自身と交渉を開始した。

「(……もし、今回のテストで、全ての教科において平均点を大幅に超え、かつ数学と英語で過去最高順位をマークできたなら。……その時、俺は自分への『特別報酬』として、この最新刊、いや、第一巻から全ての物語を読み直す権利を自分に付与しよう。……そうすれば、このワクワクは、今の苦しい学習プロセスを支える、最強のモチベーションへと変換される……!)」


論理による感情の飼い慣らし。

それは春馬が得意とする技法だったが、今、彼が行っているのは「拒絶」ではなく「共存」だった。

彼は、自分が漫画に心躍らせる「一人の男子高校生」であることを、静かに、そして誇らしく受け入れたのだ。


「(……テストが終わったら……読み直そう。その時は、もっと深いレベルで、この作品の戦術論を考察できるはずだ……)」

春馬は、一瞬だけ満足げな笑みを漏らし、決然と漫画コーナーを後にした。

足取りは、先ほどよりもさらに軽く、確かな目的意識に満ちていた。


約束の十五分が経過した。

春馬が参考書コーナーの奥へと向かうと、そこには既に蒼奈が待っていた。彼女は、一冊の、少し厚みのある本を抱えながら、待ちきれない様子でこちらを見ていた。

「春馬くん、お帰り! どうだった、このお店の『構造』は把握できた?」


「……フン。概ねの把握は完了した。情報の分布、導線の設計、そしてこの店舗が抱える『娯楽への偏重』という名の市場原理……。有意義なスキャンだったと言える」

春馬は努めて冷静に答えたが、蒼奈は彼の瞳の奥に、隠しきれない微かな「光」が宿っているのを見逃さなかった。


「……あれ? 春馬くん、なんだか、来る前よりちょっとだけ元気になった? もしかして、何かいいこと、見つけちゃった?」


「……な、何のことだ。俺はただ、効率的な学習環境の分析に成功した喜びを、微かな表情筋の変化として表出したに過ぎない。……それより、若宮。お前が選んだ『隠し玉』とやらの正体を見せてもらおうか。お前のセンスが、俺のテスト前の貴重な時間を浪費させるに値するものかどうか……見極めさせてもらう」

春馬は話を逸らすように、蒼奈の手元を指差した。

蒼奈は、「もう、相変わらずだなぁ」と笑いながらも、その本を春馬の前に差し出した。


「いいよ! 春馬くんのその『高揚した気分』が、もっと爆発しちゃうような、最高の一冊。……これだよ!」

夕闇が迫る窓際、書店の静寂の中で。

二人の「参考書選び」は、ここから本番へと突入する。

春馬の胸の中で燃え始めた「漫画への情熱」と、蒼奈が用意した「未知の知識」。

その二つが交錯する時、春馬の論理は、さらなる高みへと昇華されることになる。

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