第百十三話「テスト週間⑲」
電車の扉が開き、朝の清涼な空気が車内に流れ込む。春馬と蒼奈は、吐き出される乗客の群れに混じってホームへ降り立ち、並んで改札へと向かった。
高架下を抜け、学校へと続く通学路。街路樹の隙間から差し込む朝日が、アスファルトの上に二人の影を長く伸ばしている。先ほどまでの、密閉された車内での熱い「翻訳対決」の余韻が、春馬の脳内にはまだ心地よい電気信号として残っていた。
「……はぁ。結局、今日は朝の図書館での勉強、できなかったね」
蒼奈が、少しだけ残念そうに、けれど足取りは軽く、隣でポツリと呟いた。彼女のカバンの中で、参考書やノートが重なり合う乾いた音が響く。
「……図書館という静的な環境での研鑽は損なわれた。だが、不測の事態(遅刻)から導き出された『電車内でのセッション』は、限られたリソースの中では極めて高密度なものだった。時間がないという制約が、かえって情報の処理速度を底上げしたのだ。総合的な学習効率という観点からは、問題はないと判断する」
「あはは! 春馬くんってば、ポジティブ思考だね。普通、遅刻しそうになったらもっと焦るものなのに、それを『高密度なセッション』に言い換えるなんて」
「ポジティブなのではない。起きた事象に対して、いかに論理的な救済措置を適用するかを検討しているだけだ。過去の損失を嘆くことは、さらなる時間の浪費を生む非合理的な行為だからな」
春馬は前を見据えたまま淡々と答えた。その横顔には、以前のような「寄せ付けない冷たさ」ではなく、自分の状況を客観的に分析し、次へと繋げようとする前向きな熱量が宿っている。
蒼奈は、そんな春馬の横顔をじっと見つめ、何かを確信したようにニヤリと笑った。
「そっか。……じゃあ、春馬くん。さっきのさ、電車の中での『翻訳対決』。私が勝ったから……今日の放課後の参考書選びの権利、私が得たんだよね?」
「…………っ」
「約束だもんね。放課後に行こうよ、本屋さんに! 春馬くんにぴったりの、もっとレベルの高い問題集、私が選んであげるから!」
春馬の歩みが、一瞬だけ不自然に乱れた。
「……あれは、その場の勢いというか、いわゆる『言葉の綾』に過ぎない。翻訳という言語的格闘における、一種の比喩的な報酬設定だ。文字通り受け取るのは、情報のフィルタリング能力に欠けていると言わざるを得ないな」
春馬は視線を泳がせ、防衛本能全開で「言い訳」という名の論理を組み立て始めた。しかし、蒼奈はその程度の反論は完全に織り込み済みだった。彼女は春馬の前に回り込むようにして歩き、後ろ向きに歩きながら、いたずらっぽく小首をかしげた。
「えー? 『男に二言がある』のかな、春馬くんは? 武士の情け……じゃないけど、言ったことは守るのが、春馬くんの美学じゃなかったの?」
「……『男に二言はない』という言葉は、本来は慣用句であり、古風な道徳観に基づいた精神論に過ぎない。現代社会においては、状況の変化に応じて発言を修正することは柔軟な対応として評価されるべきであり、実質的にそれは、交渉における『言葉の綾』として消費されているのが現状だ」
春馬は、わざと難解な表現を並べて煙に巻こうとした。
「若宮。お前は、俺の『言葉の綾』という名の防御策に対して、わざわざ『言葉の綾(慣用句)』を用いた指摘で対抗しようというのか? 二重のレトリックによって俺を拘束しようとするその試みは、論理的な二重債務を強いているに等しい」
「あはは、難しい言葉をいっぱい並べて逃げようとしてる! でもね、春馬くん」
蒼奈は足を止め、真っ直ぐに春馬を見据えた。
その瞳には、からかいを越えた、確かな「証拠」を握っている者の余裕が満ちていた。
「春馬くんは確かに言ったよね? 『言葉の綾』では片付けられない、明確な宣言をさ。……覚えてる? 『……受理しよう。敗者は勝者に』って、自分からはっきり言ったんだよ?」
「…………っ」
「これは条件定義だよ。IF(もし私が勝ったら)THEN(参考書選びの権利を譲渡する)。春馬くんの得意なプログラミング的な論理で言えば、この関数はもう実行されちゃったんだよ。そして、私は勝者だ。……だから、放課後の本屋さんは、確定事項なの!」
春馬は、完全に逃げ道を塞がれたことを悟った。
「受理しよう」――。
自らが口にしたその言葉は、彼にとっての「契約」と同義だ。どんなに屁理屈を並べ立てても、自分の根幹にある「論理の一貫性」が、その契約の履行を命じている。
「(……クソッ。……俺の『受理』という単語の重みを、この女は正確に把握して利用しているのか。……俺の論理そのものを、俺を捕らえるための檻に変えるとは……)」
春馬は、深いため息をつき、降参するように首を振った。
「……分かった。……受理した以上、その撤回は俺の論理体系の崩壊を意味する。……敗北を認め、権利の譲渡を実行しよう。……放課後、本屋へ同行することを許可する」
「やったぁ! 決定だね!」
蒼奈は、子供のように無邪気に手を叩いて喜んだ。その笑顔は、朝の光よりも眩しく、春馬の胸の奥にある「女性不信」という名の氷を、また少しだけ溶かしていった。
「あ、でも勘違いしないでよ? あくまで『参考書選び』の手伝いだからね。デートとか、そういうイベントじゃないから!」
「……誰もそんなことは言っていない。自意識過剰だぞ、若宮。……俺は単に、効率的な学習リソースの確保のために、お前の知見を利用するだけだ。お前のセンスで、俺の『空白』を埋めるに足る良書を選別してみせろ」
春馬は顔を背け、再び早歩きで学校へと向かい始めた。
隣を並んで歩く蒼奈。彼女の楽しげな鼻歌が、静かな通学路に響く。
「(……放課後。……テストまで一週間を切ったこの逼迫した状況下で、本屋という名の『迷宮』へ誘われるとは。……非効率極まりない……はずなのだが)」
春馬は、自分の心拍数が、先ほどの「翻訳対決」の時よりも、さらに不規則に高鳴っていることに気づいていた。
「受理」してしまったのは、果たして契約だけだったのか。
それとも、彼女と一緒に過ごす時間そのものを、自分の心が求めていた結果なのか。
「(……まあいい。……本屋での滞在時間も、お前との『共同研究』の一部として、俺の脳内にアーカイブしてやる。……覚悟しておけ、若宮。お前が選ぶ本が、俺の論理を満足させられなかった場合、その時は相応のペナルティを課すからな)」
そんな春馬の強がりを、蒼奈はすべて分かっているかのように、優しく、そして楽しそうに笑い飛ばした。
「うん! 私に任せて。春馬くんが絶対に『すごい!』って言っちゃうような一冊、見つけてあげるから!」
校門が見えてくる。
一日の始まり。
テストという名の戦場に向かう二人の背中は、もはや「他人」ではなく、同じ地平を見つめる「パートナー」のそれへと、確実に変わりつつあった。
二人の放課後——それは、勉強という名の建前を纏った、デートの始まりを告げていた。




