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第百十一話「テスト週間⑰」


自動ドアが閉まり、駆動音と共に電車が滑り出す。満員というほどではないが、通学・通勤客で適度に埋まった車内。春馬は左手でつり革をしっかりと掴み、右手には自らのスマートフォンを保持していた。

その横顔は、いつになく険しい。いや、それは焦りというよりも、高度な演算処理を行っているCPUのような、静かな熱を帯びた集中だった。

春馬の右耳には、白いワイヤレスイヤホンが一つだけ差し込まれている。彼は画面を食い入るように見つめ、親指を機械的なリズムで動かしていた。


「(……分詞構文の完了形。主節の時制との乖離を、完了分詞によって表現する。……音声データとの同期も問題ない。聴覚と視覚の同時刺激による記憶定着効率は、理論上、単一刺激の1.4倍に相当するはずだ……)」

蒼奈が隣に立っていることは認識していた。しかし、今の春馬にとって、一分一秒の遅滞は夏休みの自由を奪う「負債」に直結する。彼は余計なノイズを排除し、ひたすらスマホ内の学習アプリ——英単語の羅列と、ネイティブの読み上げ音声、そして英文の和訳がフラッシュカードのように切り替わる画面——に没入していた。


そんな春馬の様子を、蒼奈は隣で静かに観測していた。

彼女は、春馬が自分の教えた「待ち受け暗記術」だけでなく、自ら最適なツール(アプリ)を探し出し、隙間時間をハックしているその姿を、実に興味深く、そして誇らしげに見つめていた。

ふと、蒼奈の口角が吊り上がる。彼女は春馬に気づかれないよう、音もなく一歩だけ距離を詰めると、彼の空いたままの左耳へと、その顔を極限まで近づけた。

そして、春馬の低いトーンと独特の語彙を完璧にトレースした「箕島春馬・モノマネ(電車版)」を、吐息混じりに囁いた。


「『……電車が来る。……若宮。今の言葉は、一時的に保留アーカイブしておく。……テスト前に、俺の脳内メモリを無駄な感情で占有させるな。……分かったら、さっさとその教科書をしまえ。電車内は、暗記ではなく、概念の再確認に充てるぞ』……なーんてね?」


「……っ!?!?」

鼓膜を直接揺さぶるような至近距離からの「自分のコピー」に、春馬の全身に電流が走った。彼は反射的にイヤホンを耳から引き剥がし、弾かれたように蒼奈を見た。

「わ、若宮……っ! お前、何の用だ!? 突然、不当な聴覚的ハラスメントを行うなと言っているだろう!」


慌てふためく春馬の反応に、蒼奈は満足げに、そして意地悪くニヤリと笑った。

「いや〜? だって春馬くん、さっき駅のホームであんなに偉そうに『教科書をしまえ』とか『感情で占有させるな』とか言ってたじゃない? なのに、いざ電車に乗ったら誰よりも必死に、しかもスマホアプリなんていう最新兵器まで使って、ゴリゴリに『暗記』してるんだもん」

蒼奈は春馬のスマホ画面を指差し、楽しそうに畳み掛ける。


「言ってることとやってることが、論理的に矛盾してなーい? 先生としての自覚が足りない、とか言われちゃいそうだよ?」


「……っ、それは、その……」

春馬は顔を赤く染め、必死に論理の防衛ラインを再構築しようと試みた。しかし、手が微かに震える。

「……人間という生物は、常に変化し続ける動的なシステムだ。当然、刻々と変化する状況コンテキストに応じて、思考や優先順位も更新アップデートされる。……俺は、この電車に乗り、吊革を掴んだ瞬間、自らの置かれた状況を再評価したのだ。……結論として、余裕をこいている場合ではないと判断したに過ぎない」


「ふーん? つまり、自分に甘いだけじゃないの?」


「甘いのではない、最適化だ。……それに、だ。……それと……」

春馬はそこで一度言葉を切り、視線をスマホの画面へと落とした。いつもなら「非効率だ」「不条理だ」と吐き捨てるはずの学習作業。しかし、今の彼の口から出ようとしている言葉は、彼自身の論理体系において、最も説明が困難な「本音」だった。


「……正直、……勉強に、ハマったというか。……いや、言い方を変えよう。……お前という外部リソースによって提供された知識が、俺の中で既存のデータと結合し、意味を成していくプロセス……その『身についていく実感』が、俺の予想を遥かに上回る充足感をもたらしている」

春馬は少しだけ言葉を詰め、絞り出すように続けた。


「……結果として、もっと学びたい、もっとこの『空白』を埋めたいという……論理的には説明し難い『欲』が、制御不能なレベルで肥大化しているんだ」

その告白を聞いた瞬間、蒼奈の表情から悪戯な色が消えた。彼女は、春馬の言葉に含まれた熱量——世界を拒絶していた少年が、再び何かを吸収し、成長しようとする「生命力」の胎動を感じ取った。


「……そっか。つまり、春馬くん。……『勉強が楽しい』ってことだね?」

蒼奈は、まるで春の光を体現したような、どこまでも澄んだ笑顔で笑った。


「いいことじゃん! 理屈なんて後回しでいいよ。その『楽しい』って気持ちこそが、どんな公式よりも強い、春馬くんだけのエネルギーなんだから!」


「……楽しい、だと? 語彙の選択が単純すぎる。俺はあくまで『効率的な習得に伴う知的快楽』と表現している――」


「はいはい、それが『楽しい』ってことだよ。素直じゃないなぁ、もう!」

蒼奈は、つり革を掴んでいない方の手で、春馬の肩を軽く小突いた。


「テストまで、あと一週間もないもんね。いよいよラストスパートだよ! 春馬くんがその調子なら、私の『研究成果』も過去最高になりそうだね」

「……フン。君の期待に応える義理はないが、俺の夏休みという資産を守るため、全力を尽くすことは約束しよう」

春馬は再び、イヤホンを耳に装着しようとした。しかし、その指先は先ほどよりも少しだけ軽やかだった。


「……若宮。お前も、ぼーっとしている暇があるなら、自分の弱点でも確認しておけ。全教科100点という記録が、俺の『追い上げ』によって相対的に価値を落とすことになるぞ」


「あはは、望むところだよ! じゃあ、駅に着くまでの五分間、どっちが正確に翻訳できるか競争する?」


「……受理しよう。敗者は勝者に、今日の放課後の参考書選びの権利を譲渡する、というのはどうだ?」


「それ、どっちが勝っても一緒に本屋さんに行くってことじゃない? 春馬くん、実はすっごく誘い方が上手くなったね」


「…………っ、……計算だ! 全ては計算の内だ!」

電車の揺れに合わせて、二人の距離が再び近づく。

窓の外を流れる景色は、朝の光に照らされて輝いていた。

かつては「義務」と「拒絶」でしかなかった通学路が、今は、自分を変えていくための加速装置へと変わっている。

春馬は、スマホの画面に並ぶ英単語を見つめながら、自分の内側で静かに燃える「学び」への渇望を、もう否定しなかった。

蒼奈という少女が持ち込んだ「不確実な楽しさ」は、今や春馬の凍りついた論理回路を完全に溶かし、新しい自分へと作り変えるための、最強の熱源となっていた。

電車の到着を告げるアナウンスが響く中、春馬は、隣で楽しそうにスマホを覗き込む蒼奈の横顔を、一瞬だけ盗み見た。

そこにあるのは、どんな公式でも導き出せない、けれど最も美しい「正解」のように思えた。


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