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第百十話「テスト週間⑯」


朝の空気は、昨夜の雨を含んだような湿り気を帯びていた。

春馬は、普段の冷静な足取りをかなぐり捨て、住宅街の舗装路を文字通り「駆けて」いた。心臓の鼓動が耳の奥で警報のように鳴り響き、肺が冷たい空気を求めて激しく上下する。


「(……失策だ。……昨夜、ワークの演習フェーズにおいて想定以上の集中力を発揮し、脳内リソースを限界まで消費した結果、起床プロセスにおける覚醒スイッチの作動が大幅に遅延した。……睡眠という名のメンテナンス時間を削ったことによる、典型的なシステムダウンだ……!)」


腕時計に目を落とす。八時十五分。

学校の始業時間には、今から全速力で向かえば辛うじて間に合う。しかし、蒼奈と約束していた「朝の図書館での最終セッション」の開始時刻は、とうに過ぎ去っていた。

春馬にとって、学校とは「義務的に滞在する場所」だ。だが、今の彼にとって図書館のあの席は、単なる学習スペースではない。蒼奈という「不確実な変数」と共に、自分の無知という名の空白を埋めていく、いわば聖域に近い場所になりつつあった。その時間を自らの不手際で毀損(き損)した事実に、春馬は激しい自己嫌悪を覚える。


「(……歩きでは間に合わない。……非効率だが、公共交通機関(電車)による最短経路を選択する。……コストはかかるが、時間の損失という名の負債を最小限に抑えるための、緊急避難的措置だ)」


春馬は、普段は利用しない最寄りの駅へと滑り込んだ。

改札を抜け、自動階段を駆け上がる。ホームに辿り着き、乱れた呼吸を整えようとしたその時――視界の端に、見覚えのある、そして今最も合わせる顔がないはずの「色彩」が飛び込んできた。

ホームのベンチの端。

教科書を膝に乗せ、少しだけ眠そうに、けれど背筋を伸ばして電車を待っている少女。


「……若宮、か?」

聞き慣れた声に、蒼奈が顔を上げた。彼女の瞳が一瞬だけ驚きに丸くなり、次の瞬間、いつものような、春の陽だまりのような悪戯っぽい光を宿した。


「……あ、春馬くん! 奇遇だね。もしかして、春馬くんも『寝坊』っていう名の、ミスを犯しちゃった?」


「……フン。ミスではない。昨夜の学習効率が理論上の限界値を超え、結果としてシャットダウン時間が延長されたに過ぎない。……だが、驚いたな。全教科100点の優等生であり、俺の『先生』を自称するお前が、自ら設定した図書館の集合時間に遅れ、あろうことか電車登校を選択するとはな」

春馬は、自らの遅刻という負い目を隠すように、あえて攻撃的なレトリックを選択した。彼は蒼奈の隣、一定のパーソナルスペースを保った位置に立つ。


「若宮。お前が提唱した『朝の有効活用』というロジックは、お前自身の寝坊によって完全に瓦解した。……先生としての自覚が、著しく欠如しているのではないか?」

その言葉は、春馬なりの照れ隠しであり、同時に彼女の完璧な牙城に一矢報いたいという、ささやかな反撃でもあった。

しかし、蒼奈は怒るどころか、クスクスと楽しそうに肩を揺らした。


「あはは! 春馬くん、最近本当にお調子者だよね。……私の失敗を突いて、ここぞとばかりに論理で攻めてくるなんて。昨日の『眠れる森の美女』のモノマネといい、なんだか、余裕が出てきたんじゃない?」


「お調子者、だと? 言葉の選択を誤るな。俺は常に客観的な事実に基づき、お前の言動の矛盾を指摘しているだけだ。……いつも俺ばかりが、お前の不条理な攻勢に晒され、恥をかかされているからな。この程度のカウンターは、均衡を保つための正当防衛だ」


「恥をかいてる、かぁ。……ふーん。つまり、春馬くんは私に対して、いつも『負けてばかり』だって思ってるんだ?」

蒼奈は立ち上がり、春馬の方を向いた。

電車の接近を告げるアナウンスがホームに流れ、微かな風が彼女の髪を揺らす。彼女は一歩だけ、春馬との距離を詰めた。その距離は、昨日の教室での「モノマネ」の時よりも、ずっと親密で、逃げ場のないものに感じられた。


「…………否定はしない。お前との対話において、俺の論理が完勝を収めた記録は、現時点では一例も存在しない。常に、お前の『不確実な楽しさ』という名の暴力に屈しているのが現状だ」

春馬が苦々しく認めると、蒼奈はふっと、どこか遠くを見るような、それでいて深い慈しみを湛えた瞳で笑った。


「……変なの。私は別に、春馬くんと勝負なんてしてないのにね」


「……何?」


「私はただ、春馬くんと一緒にいたいだけだよ。勉強を教えるのも、モノマネを見て笑うのも、全部。……勝ったとか負けたとか、そんな冷たい数字で測れるものじゃないと思うんだけどな」


「…………っ!!」

春馬は絶句した。

彼女の言葉は、彼がこれまで大切に守ってきた「勝敗」や「優劣」という名の論理の壁を、いとも容易く、そして優しく、すり抜けて胸の奥へと届いた。

「勝負をしていない」――それは、春馬が最も恐れていた回答だった。

対等なライバルとしてではなく、単なる「一緒にいたい対象」として認識されている。その事実は、彼の女性不信という名の防衛本能を激しく揺さぶり、同時に、生まれて初めて「特別扱い」をされているという、抗いがたい全能感(万能感)を彼に与えていた。


「(……若宮蒼奈。お前は、どこまで俺の計算を狂わせれば気が済むんだ。……勝負をしていない、だと? お前がそうやって、何の武器も持たずに微笑むことこそが、俺にとって最大の攻撃であると、なぜ気づかない……)」

春馬は、赤くなる耳を隠すように、視線を反対側の線路へと向けた。

激しく打ち寄せる感情の波を、必死に「電車を待つという静止状態」で抑え込む。


「……電車が来る。……若宮。今の言葉は、一時的に保留アーカイブしておく。……テスト前に、俺の脳内メモリを無駄な感情で占有させるな。……分かったら、さっさとその教科書をしまえ。電車内は、暗記ではなく、概念の再確認に充てるぞ」


「はーい、先生! 厳しいなぁ、春馬くんは」

蒼奈は楽しそうに返事をし、春馬の隣に並んだ。

入線してくる電車の風圧を受けながら、春馬は、自分の隣に立つこの「解けない数式」のような少女を、盗み見る。

彼女は勝負をしていないと言った。

だが、春馬は知っていた。この胸の、不規則で、激しい高鳴りこそが、自分の完全な「敗北」を告げるファンファーレであることを。


「(……夏休みを勝ち取るための戦いは、まだ始まってすらいない。……だが、俺は既にお前に、自分でも気づかないうちに、多くのものを『明け渡して』しまっているのかもしれないな……)」

電車のドアが開き、二人は並んで車両へと足を踏み入れた。

喧騒の中、二人の間には、もはや言葉を必要としない、けれど昨日よりもずっと確かな「共犯関係」が成立していた。

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