第百九話「テスト週間⑮」
自室のドアを閉め、背中でその重みを受け止めた瞬間、春馬は肺の中に溜まっていた熱い空気をすべて吐き出した。リビングで母・春那から投げかけられた「蒼奈ちゃん」という単語の残響が、耳の奥で微かな耳鳴りのように響いている。
「(……母親という個体は、なぜあのように文脈の飛躍を厭わないのか。俺の学力向上の背後に特定の協力者が存在することを推測するのは容易だとしても、それをあえて口に出して、当事者の動機を揺さぶる必要はないはずだ。非効率的極まりない……)」
ブツブツと独り言をこぼしながら、春馬は学習机の椅子に深く腰を下ろした。使い慣れた椅子の軋む音が、彼を「箕島春馬」という孤独な研究者の領域へと引き戻す。
しかし、今日の部屋はいつもと違って見えた。
机の端に置かれたスマートフォン。その画面が、通知を受け取るたびに、あるいは何気なく視界に入るたびに、蒼奈が施した「英単語の要塞」を映し出している。
「(……いかん。今は情報入力のフェーズではない。蓄積したデータを実戦形式で出力し、処理速度と正確性を検証する段階だ)」
春馬は自分に言い聞かせ、カバンから数学IIと英語のワークを取り出した。だが、ペンを握ろうとした瞬間、彼の脳内の「快楽中枢」が、かつてないほどの強度で反乱を起こし始めた。
視界の端、本棚に整然と並ぶ漫画の背表紙。新刊の発売日に律儀に揃え、何度も読み返したはずの物語たちが、今は「現実逃避という名の安息」を誘う甘美な罠に見える。
さらには、デスクの引き出しに眠るタブレット端末。SNSのタイムラインを開けば、そこには顔も知らない誰かとの、不毛だが心地よい論理の殴り合いが待っている。
「(……くっ、脳内のドーパミン受容体が、過剰な学習負荷に対して異常なほどの代替報酬を求めているというのか。……これが、『勉強の副作用』か……!)」
普段の春馬であれば、「今日はこの辺りで計算を打ち切るのが、長期的な精神衛生上、最も合理的だ」などという、自分を甘やかすための詭弁を弄して、漫画に手を伸ばしていたかもしれない。
しかし、今の彼には、その安易な逃げ道を断つ「絶対的な壁」が存在していた。
「……平均点以下は、即、夏休みの強制収容(補習)行き。……このルール改正は、俺の人生設計における最大級のシステム障害だ」
春馬は、改めてその「冷酷な現実」を脳内のモニターに投影した。
もし、平均点に一点でも届かなかったら。
そこにあるのは、真夏の炎天下、冷房の効きが悪い教室で、汗をかきながら教科書を音読させられるという、地獄のような非効率の連鎖だ。
自由を愛し、孤独を尊ぶ春馬にとって、学園という組織に拘束される時間は、魂を削られる行為に他ならない。
さらに、彼の脳裏にもう一つの「脅威」が浮かび上がる。
「(……もし俺が赤点、あるいは平均点割れという無様な結果を叩き出してみろ。……あの『100点の観測者』は、一体どんな顔をして俺を嘲笑うだろうか。……『春馬くんの論理って、その程度だったんだね』……などという、憐憫の混じったカウンターを食らうことだけは、万死に値する)」
蒼奈の、あのいたずらっぽく、それでいてすべてを見透かすような瞳。
彼女に「ありがとう」の半分を預けた以上、不本意な結果でその契約を破棄することは、春馬の潔癖な自尊心が許さなかった。
「……負けられない。俺の夏休みを……そして、俺が構築してきた『不信と孤独の論理』の正当性を証明するためにも、ここで脱落するわけにはいかないんだ」
春馬は、まるで呪文を唱えるようにそう呟くと、迷いを断ち切るようにスマートフォンの画面を伏せ、漫画の棚に背を向けた。
そして、目の前のワークを見開く。
「……英単語の定着率は、先ほどの抜き打ちテストで85%を超えている。ならば、次は文法構造の自動化だ。……仮定法、関係代名詞、受動態。……これらを数式のように記号化し、最短経路で正解へと導くアルゴリズムを、今ここで俺の右手に叩き込む」
シャーペンの芯がカチリと音を立てて繰り出される。
春馬は、ワークの第一問に視線を落とした。
「第一問。括弧内の動詞を適切な形に変えよ。……条件節の内容が過去の事実に反している。ならば帰結節は『would have + 過去分詞』。……処理速度、0.5秒。……次だ」
ペン先が紙面を滑る。
かつては「苦行」でしかなかった暗記科目の演習が、今は不思議と、パズルを解くような、あるいは未知のプログラムをデバッグしていくような、妙な高揚感を伴っていた。
それは、蒼奈という「新しい定義」が彼の中にインストールされたことで、彼自身の世界観が静かに、しかし劇的に上書きされた結果だった。
「(……なるほど。複素数と同じだ。理解不能だった『i(虚数)』を受け入れた瞬間に、世界中のすべての方程式が解けるようになったように。……彼女が持ち込んだ『不確実な楽しさ』という変数を受け入れたことで、俺の学習効率は、今、理論上の限界値(限界効用)を突破しようとしている……)」
一時間、二時間。
気がつけば、部屋の時計の針は深夜を指そうとしていた。
いつもならとっくに集中力が散漫になり、SNSの海へと漕ぎ出していた時間。
しかし今の春馬は、見開きいっぱいに書き込まれた正解の山を眺め、微かな、しかし確かな充足感を覚えていた。
「……ふぅ。……英語のワーク、目標範囲まで完遂。……数学IIに関しても、解と係数の関係、および複素数の演算は、既に俺の血肉となっていると言っても過言ではない」
春馬は、凝り固まった肩を回し、大きく伸びをした。
机の上に伏せられたスマートフォン。彼は、迷った末にそれを手に取り、画面を点灯させた。
オーロラの背景に浮かぶ、彼女が選んだ英単語たち。
その一つ一つが、今はただの文字ではなく、彼女の声、彼女の笑顔、彼女の「教え」を伴って語りかけてくるような錯覚を覚える。
「……明日。お前が繰り出すであろう追加のテストに、俺は『100点の論理』で返答してやる」
春馬は、自らの内に芽生えた「確信」という名のデータをセーブし、電気を消した。
暗闇の中、スマートフォンの画面が放つ微かな光が、彼の枕元を照らしている。
それは、かつて彼が撮った孤独なカナダの空よりも、ずっと近く、ずっと温かい、未来を指し示す道標のように見えた。
眠りに落ちる寸前、春馬の脳内には、まだ習得していないはずの「未知の感情」を記述するための、新しい数式が形作られようとしていた。




