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第百八話「テスト週間⑭」


玄関の扉を開けると、家の中に漂っていたのは、夕食の支度を告げる出汁の香りと、平穏な「日常」の空気だった。しかし、今の春馬の脳内は、先ほどまで教室で交わしていた蒼奈とのダイアログがキャッシュとして残り続け、いつもの静寂をかき乱している。


「おかえり、春馬。……あら、なんだか今日は一段と『戦ってきた』って顔をしてるわね。テスト勉強、順調なの?」

リビングから顔を出した母・春那が、手にしたお玉を指揮棒のように振りながら、のんびりとした調子で問いかけてきた。春馬は靴を揃え、カバンを律儀に持ち直しながら、事務的なトーンで応じる。


「……順調だと言わざるを得ない状況だ。今期から学園の規律が更新され、平均点を下回る個体は夏休みの自由時間を奪われ、強制的な補習リソースに割り振られるという、過酷なルールに変更されたからな。生存戦略として、点数の底上げは不可避だ」


「あらあら、それは大変。……でも、春馬なら大丈夫よね? 蒼奈ちゃんに迷惑かけないように、しっかり頑張るのよ?」


「……っ!!」

不意に投げ込まれた「若宮蒼奈」という固有名詞に、春馬の思考回路が一瞬だけショートした。肺に吸い込んだ空気が、不自然なラグを伴って吐き出される。


「……なぜ、今ここで若宮の名前が出てくる。文脈の接続が不自然だ。俺の学力向上の是非と、彼女の存在に直接的な因果関係はないはずだろう」


「あら、図星? その動揺の仕方は、春馬が前に言っていた『テストを乗り切るための新策』っていうのが、蒼奈ちゃんのことだったのね?」

春那は確信に満ちた笑みを浮かべ、面白そうに息子の顔を覗き込んだ。春馬は眼鏡を指で押し上げ、視線をわずかに斜め下へと逸らす。母親という存在の観測精度は、時としてAIのアルゴリズムよりも鋭く、そして逃げ場がない。


「…………否定はしない。彼女は全教科100点という異常な計算能力を保有している。その外部リソースを活用することは、学習効率を最大化させるための、最も合理的な選択だ。……結果として、俺の『空白』は、彼女の手によって埋められつつある」


「そう。……よかった。春馬がそうやって、誰かの力を借りることを覚えたのね。……お母さん、春馬が少しずつ変わってきて、なんだか嬉しいわ」

春那の言葉には、茶化すような響きは消え、代わりに息子を見守る温かな湿り気が宿っていた。

春馬はその「感情の温度」に気恥ずかしさを覚え、背を向けて階段へと足を向ける。


「……フン、変わったのではない。ただの最適化だ。……それから、勉強に没頭している息子にかけるべき言葉は、『誰かに迷惑をかけるな』といった対人関係の訓示ではなく、低血糖や睡眠不足を懸念した『体調に気をつけろ』というバイタルチェックであるべきだろう……」


小声で理論武装の残滓を吐き出しながら、春馬は逃げるように自室へと駆け込んだ。

自室のデスクにカバンを置き、ベッドに倒れ込む。

ポケットから取り出したスマートフォンの画面を点灯させると、そこには今朝まで存在していた「孤独なオーロラ」を侵食するように、蒼奈が書き込んだ英単語のリストが整然と、しかし圧倒的な熱量を持って並んでいた。


『迷惑をかけないように』

母の言葉が脳裏をよぎる。しかし、春馬には分かっていた。

迷惑どころか、彼は既に、彼女という巨大なエネルギーに、自らの人生の慣性を完全に書き換えられているのだということを。


「(……若宮。お前が預かると言った『ありがとう』の半分は、俺の想像以上に重い。……だが、その重さが、今は不思議と、俺をこの机に向かわせる原動力になっている……)」

春馬は再び、今度は自発的に、彼女が作った「戦術盤スマホ」を手に取り、夜の研鑽へと没入していった。

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