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第百七話「テスト週間⑬」


夕闇が教室の端から静かに忍び寄り、古い木床に長い影を落としていた。放課後の喧騒も遠ざかり、世界には二人の呼吸と、時折聞こえる遠くの運動部の笛の音だけが残されている。


「……よし、それじゃあ今日の『総仕上げ』。スマホの待ち受けに設定したばかりの最重要単語、抜き打ち最終チェックいくよ?」


蒼奈は机に突っ伏していた先ほどの動揺を無理やり押し隠すように、少し上気した顔で単語帳を開いた。その指先がわずかに震えているのを、春馬は見逃さなかったが、あえて指摘はしなかった。それが、今の彼にできる最大限の「紳士的配慮」だった。


「いいか、若宮。今の俺は、お前がハッキングした待ち受け画面を、数分おきに強制視認させられている。脳内キャッシュには、お前の選別した不条理な語彙リストが完璧に展開されている」


「ふふん、言うねぇ! じゃあ、いくよ。'Invaluable'」


「『計り知れないほど価値のある』。'Valueless'(価値のない)と混同しやすいが、否定の接頭辞が意味を強めている、論理的なトラップ単語だ」


「正解。じゃあ、'Resilience'」


「『回復力』。あるいは『弾力性』。……システムがダメージから復旧する際に必要な、動的な強度を指す」

次々と繰り出される単語に、春馬は淀みなく答えていく。その速度は、午前中の「脆弱性診断」の時とは比較にならないほど鋭く、正確だった。まるで、彼女というフィルターを通した言葉だけが、特別な熱を持って脳の深部に刻み込まれているかのようだった。


「……うん、全問正解! 春馬くん、本当に凄いや。私の『待ち受けハッキング戦略』、効果絶大だね!」

蒼奈がノートを閉じ、達成感に満ちた笑顔を向けた。その屈託のない輝きを真っ向から受けた春馬は、ふと、胸の奥に溜まっていた「何か」が、言葉となって溢れ出すのを感じた。


「……若宮。認めよう。お前のやり方は、俺の想定を遥かに超えた効率を叩き出している。……ありがとう。若宮という変数が介入したことで、俺のテストという名の戦場は、生存の確率が飛躍的に向上した」


「ありがとう」――その五文字が、春馬の唇から零れ落ちた瞬間、世界がわずかに静止したように感じられた。

春馬の脳裏に、凍りついたままの過去がフラッシュバックする。


(……最後に、女子に対して心からの感謝を伝えたのは、いつだったか……)


小学校のあの日、好意を伝える前に大衆の前で一方的に振られ、信じていた善意が「雑巾」という蔑称に塗り替えられる前。世界を信じ、人の優しさを計算だと断じる前の、まだ「箕島春馬」がただの少年だった頃。

それは、彼が「女性不信」という重い鎧を纏って以来、一度も使われることのなかった死語ロスト・ランゲージだった。


「(……今の俺は、何を言っている。……なぜ、何の警戒も、計算もなく、この『脅威』に礼を言っているんだ……)」

自分の内側で起きた急激な気圧の変化に、春馬は戸惑い、視線を彷徨わせた。しかし、そんな彼の葛藤を包み込むように、蒼奈はいつものように、けれどどこか優しく、柔らかな声で笑った。

「……あはは、春馬くん。今、すっごく真面目な顔して言ったね。……でもね」

蒼奈はカバンを肩にかけると、教室の入り口へ向かって一歩踏み出し、振り返って人差し指を立てた。


「その『ありがとう』は、まだ半分だけ預かっておくよ。本当の『ありがとう』は、テストが全部終わって、春馬くんが最高の点数で夏休みを勝ち取った時に……また、聞かせてよ」


夕日に照らされた彼女の笑顔は、どの数式よりも正解に近く、どの論理よりも説得力に満ちていた。

「(……預かってもらう、か。……若宮蒼奈。お前は本当に、俺に『次』を期待させる天才だな)」

春馬は、まだ少しだけ熱を持っている自分の心拍数を確認しながら、無言で荷物をまとめた。

二人の「共同研究」は、ただの勉強会という枠を超え、春馬が失った「信じる」という行為の、リハビリテーションへと変貌を遂げつつあった。

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