第百五話「テスト週間⑪」
五限目の英語の授業。教室には、教師が読み上げる英文の規則的なリズムと、チョークが黒板を叩く乾いた音だけが響いている。テスト期間独特の、あの重苦しくも熱を帯びた空気が、生徒たちの集中力を極限まで引き出していた。
春馬は、蒼奈の「待ち受けハッキング」によって強制的に拡張された語彙力をフル稼働させ、黒板の英文を瞬時に脳内で解析していく。
「(……構文解析、完了。関係代名詞の継続用法か。……若宮の教えは不本意ながら効果を発揮している。これならば、平均点の上方修正も現実的な数値として算出できる)」
手応えを感じた春馬が、ふと、隣の席に視線を向けた。
そこには、先ほどまで「教育者」として君臨していたはずの、全教科100点の才媛の意外な姿があった。
蒼奈は、開いた教科書の上に突っ伏す一歩手前で、首を小刻みに揺らしながら、深い微睡の海に沈んでいた。
「(……寝ているのか? 以前睡眠不足を管理しろと俺に説法しておきながら、当の本人がこの体たらくとはな。……集中力の欠如だ。論理的な矛盾の極致と言わざるを得ない)」
春馬は当初、そのまま無視して授業に集中を戻そうとした。しかし、数日前の記憶が、彼の「復讐心」という名の論理回路をスパークさせる。
「(……待て。俺が前回の授業で一時的に意識をシャットダウンした際、この女はそれを『観測対象の休止』などと称して散々弄り倒した。……因果応報だ。今ここで、相応の報いを与えなければ、俺の自尊心という名の収支バランスが取れない)」
だが、相手は若宮蒼奈だ。下手に小突いて起こしても、「春馬くん、私に触りたかったの?」などと、余裕のカウンターで返されるのが目に見えている。物理的な干渉は、かえって自分の立場を危うくする。
春馬は冷静に、そして冷徹に、筆箱から一枚の付箋を取り出した。
「(……『若宮先生』を自称したお前への、論理的な宣戦布告だ。……お前の教えを引用し、お前の失態を、最も洗練された形で提示してやる)」
春馬はシャープペンシルを走らせた。その筆致は、まるで精密な設計図を描くように正確で、かつ、隠しきれない意地の悪さが滲んでいた。
To: Wakamiya
You call yourself my 'Teacher', yet you succumb to drowsiness during a lecture?
(若宮。自らを俺の『先生』と称しながら、講義中に睡魔に屈するのか?)
Your consistency as a researcher is severely compromised.
(研究者としての一貫性が著しく損なわれているぞ。)
「(……完璧だ。先ほどのテストで学んだ 'Consistency'(一貫性)をあえて使用することで、彼女の教えが俺に定着していることを示しつつ、その言葉を彼女自身の矛盾に突き刺す。……これこそが、高次の言語的報復だ)」
春馬は、その付箋を蒼奈の机の端、彼女が目を開ければ確実に視界に入る場所に、そっと貼り付けた。
彼は満足げに鼻で笑い、再び黒板に向き直った。




