第百四話「テスト週間⑩」
四限目の終了を告げるチャイムは、春馬にとって戦場への束の間の休戦……ではなく、さらなる「試練」の合図だった。
蒼奈は予告通り、昼休みの喧騒が教室に満ちるや否や、春馬のデスクへと音もなく侵攻してきた。彼女は春馬から預かったスマートフォンを、あえて操作することなく、無機質なデスクの天板にそっと置いた。
「(……なぜだ。なぜ、先ほど宣言した『待ち受けの書き換え』を実行しない? 端末を放置したまま、俺の顔を覗き込む意図は何だ)」
春馬が訝しげに眉を寄せると、蒼奈は人差し指をチッチッと左右に振り、名案を思いついた子供のような、無垢で残酷な笑みを浮かべた。
「あのね、春馬くん。ただ単語を羅列して待ち受けにしても、それは『壁紙』としてのノイズになっちゃうだけなんだよ。まずは、君の脳内データベースのどこに穴があるのか……つまり、どの単語を『知らない』のかを正確にパッチ(修正)しなきゃいけないでしょ?」
「……脆弱性診断を行おうというわけか。合理的ではあるが、お前のその楽しそうな表情には、多分にサディスティックな娯楽性が混入しているように見える」
「心外だなぁ。私は至って真面目な教育者だよ? ……それじゃあ、抜き打ち英単語テスト、開始! 私が言う単語の意味を、1秒以内に日本語で答えてね。……いい? 迷ったら『未定義』と見なして次に行くからね」
蒼奈は手元の単語帳をパラパラとめくり、ターゲットを定めた。
英単語・高速レスポンス試験
「第一問。'Vulnerable'」
「……『脆弱な』、あるいは『攻撃を受けやすい』」
「正解。じゃあ、'Consistency'」
「『一貫性』。論理構築における必須条件だ」
「お、いい感じ。次、'Intuition'」
「…………っ、……『直感』。……論理的な根拠を伴わない、危うい思考プロセスだ」
春馬の返答が、コンマ数秒遅れる。蒼奈はそれを見逃さず、獲物を追い詰める猟犬のように、さらに言葉の刃を研ぎ澄ませた。
「惜しい、1.2秒。今の遅延は『直感』を否定したい君の理性が生んだラグだね。……じゃあ、次はこれ。'Empathy'」
「(……共感。……他者の感情を、自己の鏡面として……)…………『共感』」
「アウト! 1.5秒経過。春馬くん、やっぱり『感情』に関する単語になると、途端に検索エンジンのインデックスが重くなるんだね。分かりやすすぎるよ」
「(……クソッ。単語の知識量ではなく、俺の『思考の癖』をプロファイリングされているのか!?)」
春馬の額に、計算ミスをした時のような苛立ちと、正体不明の熱が滲む。蒼奈は楽しそうにペンで自分の唇をなぞりながら、最後の一問を、囁くようなトーンで放った。
「ラスト。これはテスト範囲外だけど、春馬くんなら知ってるよね。……'Irreplaceable'」
「……『かけがえのない』。あるいは、『代わりのきかない』」
春馬は反射的に答えた。その瞬間、デスクの上に置かれたスマートフォンの画面が、通知によって一瞬だけ点灯した。
そこにはまだ、彼がカナダで撮影した、あの孤独で美しいオーロラが映し出されている。
蒼奈は点灯した画面と、春馬の瞳を交互に見つめ、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……正解。代わりのきかない、唯一のデータ。……よし、春馬くんの弱点は完全に把握したよ。君の脳内メモリが拒絶している『情緒的単語』と『複雑な抽象概念』を中心に、このオーロラを最強の単語帳に作り変えてあげる」
彼女の手が再びスマートフォンに伸びる。春馬は、自分の「脆弱性」を白日の下に晒された敗北感を感じつつも、彼女の「診断」によって、自分の空虚な知識の欠落が、確かな重みを持って埋められていく予感に、抗うことを止めていた。
「(……『代わりのきかない』、か。……若宮、お前という変数を、俺の人生の計算式に組み込んだ時点で、俺の論理は、もはや後戻りできないほどに『上書き』されているのかもしれない)」
午後の予鈴が鳴り響く中、春馬のスマートフォンは、世界で唯一の、そして最も「非論理的で親切な」学習デバイスへと進化を遂げようとしていた。




