第百二話「テスト週間⑧」
教室の喧騒の中、彼女はスカートのポケットから薄型のスマートフォンを滑り出させた。その動作には、これから始まる「講義」への迷いのなさが表れている。
「じゃあ、まずは英語から攻略していこうか。もちろん文法も土台として大事だけど、定期テストっていう短期決戦なら、結局は『英単語』をどれだけストックしているかが勝負を分けるんだよ。お姉ちゃんが言ってたけど、大学入試とかの長文読解だと、たった一つのキーワードが分からないだけで、文章全体の意味がゲシュタルト崩壊して大ピンチになることもあるんだって」
姉・麗華の教えを引き合いに出す彼女の言葉には、実戦的な重みがあった。しかし、春馬の視線はその言葉の内容よりも、彼女が手にしているデバイスへと向けられる。
「……若宮。英単語の重要性は理解した。だが、なぜそこでスマートフォンを取り出す必要がある? 単語帳を開く方が、物理的な情報の固定には適しているはずだが」
「ふふっ。情報の固定なら、もっと身近な場所があるでしょ? ……ねえ、春馬くん。君のスマホの待ち受け画面、見せてよ」
「……何だと?」
唐突なプライバシーへの踏み込みに、春馬の思考回路が一時的にフリーズする。待ち受け画面。それは所有者の内面が無意識に投影される、極めてパーソナルな領域だ。困惑し、眉間に深い皺を寄せながらも、彼は抗いきれずにポケットから自らの端末を取り出し、ロック画面を表示させた。
漆黒のベゼルの中に浮かび上がったのは、夜空を劈くように揺らめく、幻想的なエメラルドグリーンの光のカーテンだった。
「わあ……すごい! 綺麗……。ねえ、この写真どうしたの? どこかのフリー素材?」
蒼奈の瞳が、画面の光を反射してキラキラと輝く。その純粋な感嘆の声に、春馬は少しだけ面映ゆそうに視線を泳がせた。
「……フリー画像ではない。これは去年、家族でカナダのイエローナイフに行ったときに、俺が自分で撮影した写真だ。……光学的な条件が奇跡的に揃い、センサーがその波動を正確に捉えたに過ぎない」
「えっ、自前!? ……あはは! 春馬くんって、意外とロマンチストなんだね! 普段は『効率』だの『論理』だの言ってるのに、待ち受けはこんなに幻想的なオーロラなんて!」
蒼奈の弾けるような笑い声が、春馬の耳を熱くさせる。
「意外、だと? 勝手に俺の『らしさ』を定義するな。……そもそも、俺の待ち受けが何であろうと、英単語の暗記効率には何ら影響を及ぼさないはずだ。どうでもいいだろう、そんなことは」
「ううん、どうでもよくないよ! むしろ、ここが今回の『暗記ロジック』のスタート地点なんだから」
蒼奈は笑いを含んだ瞳で、春馬の端末と、自分が手にしている端末を交互に見つめた。
「人間はね、見たくないものを覚えるのは苦手だけど、毎日強制的に視界に入るものには、無意識のラベルを貼っちゃう生き物なの。その綺麗なオーロラを、今日から一時的に『英単語の聖域』に書き換えさせてもらうよ、春馬くん?」
春馬は、自分の大切な思い出の一枚が、彼女の手によって「学習デバイス」へと改造されようとしている予感に、得も言われぬ敗北感と、それ以上の奇妙な期待感を抱かざるを得なかった。




