第十話「非効率」
「そして、その瞬間、春馬は悟った。彼女の研究対象は、若宮蒼奈の理論ではなく、箕島春馬という人間そのものの定義なのだと。」
俺の脳内にあるすべての論理演算は、無限ループに陥った。
リスク回避の最適解∩ 利益最大化の追求≠∅
論理の基礎構造に矛盾が生じ、行動の最適解が見つからない。俺は、論理という絶対的な座標軸を失い、机に固定された観測者として、沈黙を保つことしかできなかった。俺の不敵の笑みは消え失せ、表情筋はゼロ、すなわち無の状態に収束した。
解析プロトコル:『行動の不能』。
俺は、「裏切りのリスクをゼロにする」という極端な論理に固執しすぎた結果、『人生のトータルな効率性』という、より大きな観点から見れば、最も非効率な存在になってしまった。俺の存在自体が、論理的なパラドックスだ。
そんな俺の論理的なフリーズを、蒼奈は冷静に、そして興味深そうに観察していた。
「ふむ。フリーズしちゃったね、研究者さん。
これは、
『非行動の誤謬(Non-Action Fallacy)』だ」
「黙れ。俺は今、高次の論理矛盾を収束させている」
俺は、絞り出すような声で反論したが、その言葉には論理的な力が一切こもっていなかった。
「矛盾を収束させるには、新たな変数を投入するしかないよ。春馬くんは今、『楽しさという利益を排除した人生の総和』を論理的に否定できなくなっている。だから、次の研究テーマは決まりだよ」
蒼奈は、まるで当然の事実を述べるように、新たな非論理的な行動を俺に要求した。
「明日、映画館に行こうよ。今、話題の非論理的なラブストーリーを観るんだ」
俺の論理回路は、すぐに拒否のプロセスに入った。
「何を馬鹿なことを。映画館に行くという行動の是非は一旦措く。なぜ、君と一緒に行かなければならない? 俺が単独で観測するのと、君と同行するのとで、データ収集において論理的な優位性は存在するのか?」
蒼奈は、俺の論理的な抵抗に、悪意のない笑顔で、最も単純で破壊的な真実を投げつけた。
「春馬くんだけだと、絶対に行かないでしょ?」
その言葉は、俺の『孤独の最適解』という自己定義を否定せず、行動の起点として利用している。俺は、論理的に反論できなかった。
「チッ……では、なぜ数ある映画の中で、ラブストーリーなんだ?最も非論理的で、不確実な感情の塊であるジャンルを、わざわざ選択する論理的根拠はどこにある?」
俺は、楽しさという非効率性そのものを否定しようと試みた。
「俺は、ラブストーリーは嫌いだ」
俺は、湧き上がる感情的な嫌悪を、論理的な理由にすり替える。
「ただ座って息をするだけで一目惚れされるようなイケメンが、何かしら行動を起こしたところで、最初から結果は決まっているだろ。予測可能な論理の欠片もないジャンルを観測する意味はない」
一目惚れ、運命、感情的な衝動。それは、俺の人生から排除した最も非効率で不確実な要素だ。あの、最初から結果が『裏切り』に決まっているような虚構を観測する必要はない。
俺の言葉の裏にある「どうせ論理は通用しない」という諦めと、「非論理的な強者」への拒絶を、蒼奈は鋭く見抜いた。
「ふむ。『結果が最初から決まっている』という予測は、興味深いデータだね。それは、春馬くんの『自己防御』というフィルターを通した虚構の論理だよ」
蒼奈は、俺の論理を「虚構」だと一蹴した上で、研究の真の目的を告げた。
「これが、研究の目的に不可欠だからだよ。『予測不能な感情の変数が、春馬くんの行動体系に及ぼす影響』のデータ収集に不可欠だよ。感情の不確実性が高いほど、春馬くんの行動予測の精度が上がる。それに……」
彼女は、少しだけ声を潜めた。その目は、俺の奥底のトラウマを覗き込むように冷徹だった。
「ラブストーリーなら、『裏切り』という、春馬くんのトラウマのコアに直結する強烈な負の感情の変数が発生する可能性も、同時に観測できるでしょ?」
『裏切り』というトラウマのコアを、データ収集のために直視させようとする蒼奈の冷徹さに、俺は鳥肌が立った。
映画館。予測不能な感情の塊が密集する、最も非効率で非論理的な場所。俺の『裏切りリスクゼロ』という論理が最も近づくべきではない場所だ。
拒否の論理:『論理的に非効率であり、裏切りのリスクが増大する』。
受諾の論理:『拒否は、俺の最適解が非効率であることを認める論理的な逃避であり、究極の最適解への道を閉ざす』。
俺の唯一の使命は、蒼奈の「楽しさこそが究極の最適解だ」という非効率な仮説を、データで叩き潰し、俺の論理の優位性を証明することだ。拒否権は、論理的に消滅していた。
春馬は、湧き上がる屈辱を「健気な抵抗」に変えて、トレーを掴むように、机に置いていた手を強く握りしめた。
「……分かった」
俺は、観測者としての矜持を最期の砦として、蒼奈の提案を受け入れた。
「それが『究極の最適解』への証明に必要なら、協力してやる。ただし、これはあくまでデータ収集だ。非論理的な感情の関与は一切ない。映画館で得た『楽しさ』という変数は、俺の論理的な分析によって、再び無価値だと証明される」
蒼奈は、俺の負け惜しみを、最高の研究データとして受け入れた。
「もちろん、研究者さん! じゃあ、明日は午後二時に、駅前の一番非効率な待ち合わせ場所でね!」
春馬の、孤独の論理を再構築するための最初の非効率な行動が、ここに決定した。
第十話公開しました!
祝㊗️公開!
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