祝福
突然のアルの涙に戸惑いながらも、一同は市場に出向き物々交換を行った。
市場はいつもより賑わっており、人々は活気よく品物を捌いている。ムラサキほどではないがどこか興奮している様子だった。アルは疑問に思ったが、詮索するのは後にして品物を捌くことに集中した。
オースの魚介類はよく売れる。彼が取ってくる魚や貝は浅瀬では取れないものばかりで、その味も非常に美味だ。そして驚くことにオースは魚介類を素潜りで取っている。海洋生物の縄張りである海で、これほど大漁に漁獲できるオースを島人たちはとても尊敬していた。
「オースおじいさんの魚は人気だよね」
と、隣からヒスイの声。
ヒスイの交換品は相変わらずである。女性から人気のある彼の周りには自然と人が集まり、交換された品も日用品から高級品まで様々だ。
ムラサキとホタルも本日の物々交換が終わったようで、自然とアルの荷車の周りに集まる。サンゴはホタルの交換を手伝っていたのか、彼の後ろからひょっこりと顔を出した。
「アルお兄ちゃん!じゃーん!グレープフルーツのジュース!プレゼント!」
サンゴは木の器に入った飲み物をアルに差し出す。サンゴの勢いに一瞬だけ目を見開いたアルは、グレープフルーツを見つめて更に目を見開いた。
「いやいや、高級品じゃねーか!サンゴが自分で飲め、な?」
この世界において果物は準高級品だ。アルは首を振ったが、サンゴは尚もジュースを押し付ける。その顔はとても真剣で、逆に遠慮するほうが悪く思えてくるほどだった。
「受け取ってやれよ、アル」
「ホタル?」
「サンゴのやつ、それをアルにプレゼントしたいからって、オレのとこでバイトしてたんだぜ。おかげでいつもよりいい品物を交換できて万々歳だったよ」
サンゴの頭を撫でながらホタルが笑う。仏頂面の彼が笑うのは珍しい。
ホタルの家は主に穀物と、数は少ないが砂糖を扱っている。生活に必須の麦を交換品に出すホタルの荷車は、いつも良い品と交換されている。サンゴの存在で交換品に大きな変化があるとは思えない。だというのに、サンゴの提案を受け入れ、サンゴが役に立ったと言葉で伝えた。分かりにくいがホタルは優しくいいやつなのである。
アルは膝を折ってサンゴと目を合わせると、彼の心遣いに礼を言った。
「ありがとな、サンゴ。大事に飲むよ」
「…!うん!」
「でも、なんで急に?」
「だって、アルお兄ちゃん泣いてたから…何か嫌なことがあったんじゃないかと思って…」
悲し気な顔をするサンゴに、アルは先ほど自分が皆の前で号泣したことを思い出した。
…ああ、全く。サンゴに心配までさせるなんて自分が恥ずかしい。アルはジュースを受け取ると、安心させるように彼の頭を撫でた。
「えへへ。あのね、オースおじいちゃんのぶんもあるんだよ!久しぶりに会ったから!」
「おー、ありがとな。じいちゃんも喜ぶよ」
「すぐにでも渡したいけど、なんか忙しそうだね?」
オースを見ながら首を傾げるサンゴに倣って、アルもオースに視線を移す。オースはムラサキの親戚と話をしているらしく、何やら難しい単語が飛び交っていた。
「んー、そうだなあ。あ、そういえば、ムラサキ。オレとじいちゃんが市場に着いた時、なんか話そうとしてなかったか?」
そういえば、とアルはムラサキに問いかける。とても興奮した面持ちで走ってきたのだ。きっと何か話したいことがあったのだろう。
アルのその言葉にムラサキは瞳を輝かせる。そして、ずいっとアルに近づくと「そうなんです!」と甲高い声をあげた。
「昨日の流れ星、アルくんは見ましたか⁉」
「え、流れ星…?」
——流れ星…。それは昨日の夜に海で見たあの星空のことだろうか。
確かに、アルはそれを見た。
まるで聖人の二人に追従するように、輝く星々が空を駆けていた。今まで見たどんな光景よりも美しく神秘的だった。忘れるはずがない。
——けれども、
「ムラサキ。さっきも言ったけどその話本当なの?」
興奮しているムラサキに、ヒスイは訝し気な目を向ける。彼女は心外だとでもいうように眉を吊り上げた。
「もう、ヒスイくん、また疑って!昨日の夜、すっごくたくさんの流れ星を見たんですって!」
「ごめんごめん。疑ってはないよ。ムラサキは嘘をつかないってオレたちはよく知ってるし。でも、オレもサンゴも、それに、オレの村の人たちもみんな見てないって言ってたからさ。もしかしてムラサキが転寝でもしてたんじゃないかと思って」
「まあ、確かにムラサキはところかまわず寝るもんな」
「そ、そんなことは…ありますけど…でも、昨日の流れ星は夢なんかじゃありません!ね、アルくんはどうですか?流れ星見ました?」
きらきらとした瞳でムラサキがアルを見つめる。その瞳の中には『期待』の文字が見え隠れしていた。
…流れ星。
ヒスイとホタルの口ぶりから、二人はおそらく流れ星を見ていないのだろう。ホタルの家は人里離れているし、帰宅後に窓を開けることは滅多にないため見ていなくても不思議ではない。しかし、ヒスイの家は村のほぼ中央にあり、彼自身も夜間に鶏や豚の様子を見ることがある。そもそも、ヒスイ含め村人全員が流れ星を見ていないなんて少しおかしな話ではないだろうか。
…いや、見ていないのではなく、見ることができなかった?
だって、ヒスイは、彼は昨夜——…、
「…夢じゃ、ない、のか…」
小さく呟いたアルの言葉を拾ったのかムラサキは瞳を輝かせる。そして、両手でアルの手を握りサンゴのように一跳した。
「夢じゃないってことは、やっぱりアルくんも見たんですね⁉そうですよね!」
「え、アル見たの?」
「あ、あー…えーっと、」
「ほうら、私は転寝なんてしてなかったでしょう?昨日の夜、流れ星は空に輝いていたのです!そして、きっと聖人様たちが人間の祈りを受け止めてくれたに違いありません!」
自信満々に笑うムラサキには悪いが、アルはそれどころではなかった。
アルは流れ星を見た。ムラサキも流れ星を見た。ホタルは例外として、ヒスイとサンゴ、彼らの村人たちは見ていない。アルは無意識に拳を握りながら眉を潜めた。
だって、おかしいじゃないか。昨日の惨劇が現実なのだとして、ヒスイとサンゴが生きている今も現実のはずだ。もしかして、こちらが夢…?いや、そんなはずはない。でも、ならば、どうして、どうやって。
アルは胸元で拳を握りしめる。彼は今、何とも形容しがたい感情を抱いていた。激情で瞳が揺れる。心臓と脳が揺さぶられるような感覚。
姿形は人間と似ていた。とてもそっくりだった。けれど、その本質も中身も全く違う。聖人という生き物は、人間ではない。人間には到底成しえないようなことを起こせる。起こしてしまえる。
——お前はこれまでと変わりなく、日常を生きればいい——
そう告げた羽空の言葉が脳裏に浮かんで消えた。
「っ…」
「えっ、アルくん⁉どこに行くんですか⁉」
驚いたようなムラサキの声を背にアルは走り出した。目的地はない。ただ、感情のままに足を動かした。自分がなぜ走っているのか、走ろうと思ったのかも分からない。見慣れたA1大陸の草木たち。それらを掻き分けてひたすら走った。
暫くすると、草木が途絶え、代わりに見えてくる青。
太陽の光を浴びて輝く、どこまでも続く海。潮風がアルの頬を撫でた時、アルはやっと自分の心を占める感情の正体が分かった。
恐怖だ。そして、喜びと安堵。それから、感謝と好奇心。
アルは足を水の中に入れ、ざぶざぶと海を歩き始めた。
普段なら、こんな危険なことはしない。海には数多の危険生物が生息している。例え浅瀬であっても、何の武器も持たずに近寄ろうとはしない。ましてや、その状態で海の中に入るなど自殺行為である。けれど今は、もっと海に近づきたいとそう思った。
ざぶざぶと、アルは進む。
やがて、膝が浸かるほど進んだアルは大きく口を開いた。
「羽空様…、キララ様…!
オレは、お二人が何をしたのか分かんねえ…。でもきっと、羽空様とキララ様が、助けてくれたって、そう思うから…!
昨日の惨劇が夢じゃねえなら!昨日の地獄が夢じゃねえなら!これまでと変わりなく生きればいいって、あの言葉の意味はっ…!
聞こえないかもしれねえ…そもそも、どこにいるかもオレには分からねえ…。でも、出会ったのは海だったから、だから、ここで言わせてください…っ、ありがとうございました!
オレ、これからも絶望を抱えて生きていくしかないんだと思ってた。ヒスイもサンゴも大切な仲間で、あの二人を失った時、オレっ…オレ、生きていくのが辛いって、そう思った…。いっそ死んだら楽になれるかもしれねえ…、でも、じいちゃんも、ホタルも、ムラサキも、オレのことを大切に思ってくれてる人たちがいる。だから、絶望を抱えて、一生、消えない痛みを抱えて生きていかなくちゃいけねえんだって…!
…羽空様、人間のこと嫌いだって言ってたのに、それでも助けてくれたんすね…。キララ様はずっと優しくしてくれた…。
オレ、なんて言ったらいいか…。ありがとうございました、本当にっ——!」
それは、羽空とキララに向けて、アルが伝えたい想いだった。感謝は勿論のこと、もうひとつ。二人と出会って話をして、芽生えた感情がある。
「オレ、オレ…!もっと、二人を——聖人様のことを知りたいです!」
聖人とは一体何者なのか。
八十年前に何があったのか。
過去の人間たちの過ち。
羽空の意味深な言葉の意味。
どうしてあんなにも人間を嫌っているのか。
知りたい。知りたい。知りたい。もっと、知りたい。
アルの心からの叫びに水面が揺れる。
けれど、ただそれだけだった。海も風もアルの言葉に返事をしない。
しかし、アルの声は確かに届いていた。
深い深い海の底で、美の化身のような少年がほんの少し微笑んだのだから——。