星降る朝
空が段々と白んでゆく。夜の終わりだ。
呪いが消えた村に陽光が落ちる。壊れた屋根の隙間から、その光がアルを照らした。
呪いは消えた。恐怖も消えた。しかし、残ったものは心の空洞。激しい虚無の感情だった。
アルは制止するキララに首を振って、二人と共に村を一軒一軒見回った。家の中で骸となった村人を発見する度に、アルは涙を流し嘔吐を繰り返す。
一際損傷が激しいのはヒスイの身体だったが、その次に損傷が激しいのは村長の娘——件の少女の身体だった。
アルは少女こそが村人を虐殺した犯人だと思っていたが、キララの見解によると《皇帝》の聖人に利用されたのではないかという話だった。
アルは少女の顔を見る。幼いその顔は悲痛そうに歪められ、大粒の涙を零していた。
そして、村の全ての家を確認し終えた時には、アルの心は既に限界だった。
誰一人、生きている者はいなかった。
村の中央でアルは膝を折る。激しい後悔と胸を裂く痛みで涙が止まらなかった。
「アル…」
キララがゆっくりとアルの背中を撫でる。
大切な友人も、大陸の同胞たちも、みな殺されていた。
その痛みが、キララには痛いほど分かる。
嗚咽を繰り返すアルは、途切れ途切れにゆっくりと胸の内を吐露した。
「…オレ、っ…オレ、心が痛くて、痛くて痛くて…、息がしずらくて、苦しくて、こんな思い、したことなくてっ…!…一体、これから、どうすればいいんすか…。何をすれば、この痛みは消えるんすか…っ!教えてください、聖人様…」
悲痛そうに叫ぶアルに、キララは眉尻を下げる。羽空は無言でアルの眼前に立つと、真剣な表情で彼を見下ろした。
色素の薄い羽空の瞳に影が差す。
「痛みが消えることは一生ない」
「…っ、」
「あるわけが、ない」
羽空の瞳が揺れる。その瞳の中には悲哀の感情が見え隠れしており、アルの瞳も激しく揺れた。
羽空は一度、瞑目する。
「お前はこれまでと変わりなく、日常を生きればいい」
「…!そんな、」
そんなことできるわけがない…!
ヒスイとサンゴがいなくなった世界で、こんな地獄のような光景を見て、壊されて、失って、抉られて、生涯消えない傷を抱えたまま生きていくだなんて、酷だ、不可能だ。
「…できねえ…!そんなの、できるわけねえ…!」
涙を零しながら、アルは勢いよく立ち上がった。
その瞳に宿るのは激しい怒りの感情。その視線を真っ向から受けて、羽空は溜息をついた。
瞬間。
ぐらりとアルの身体が傾く。視界がぶれ、急激な寒気がアルを襲った。視界から色が消え、やがてそれはモノクロに変わる。そして、アルの意識はぶつりと途切れた。
「アル…!」
地面に倒れこむ寸前、キララがアルの身体を受け止める。彼は冷や汗を大量に流すアルの顔を覗き込んで眉尻を下げた。
「冷や汗…それに少し過呼吸気味だな」
「キララが抱えてれば大丈夫でしょ」
「そりゃそうだけどよ。少し言い過ぎじゃねえ?…失う悲しさも、戻らない虚しさも、よく知ってるだろ」
「知ってるからこそだよ」
言いながら、羽空は天を仰ぐ。皮肉にも空は美しい快晴だった。
「…太陽なんて、久しぶりに見たな」
「…だな。ところで、アル、どうする?」
「面倒だけど、家まで送り届けようか」
羽空がゆったりと歩を踏み出す。キララはアルを肩に担ぐと、歩き出した羽空の背を追った。二人はきらきらと輝く太陽の下、同じくきらきらと輝く海面を歩き、自分たちの帰るべき場所を目指したのだった。
*
アルは夢を見ていた。
ゆっくりと水の中に沈む夢。どこからともなく歌声が聞こえ、その歌声に呼応するように海水が揺れる。
とても美しい夢だと思った。しかし同時に、とても悲しい夢だと、そう思った。
「アル、アル」
「んあ…?」
聞きなれた祖父の声に意識がゆっくりと浮上する。重い瞼を開けると憔悴しきったオースが涙を流しながらアルの手を握っていた。
その光景にアルの意識が急速に覚醒する。勢いそのままにベッドから飛び起きると、慌てたオースが「何をしている!」とアルをベッドに押し戻した。
「お前というやつは…!あれほど約束しただろう!明け方まで帰ってこず、そのうえ扉の前で居眠りとは…どれだけ私を心配させれば気が済むんだ!」
眉尻を吊り上げ怒るオースに、アルは疑問符を頭上に浮かべた。これは一体どういう状況なのだろうか。アルは一度瞬きをすると、周囲をぐるりと見渡した。何の変哲もないアル自身の部屋である。窓から見える風景も一面の海。いつもと何ら変わりのない朝だった。身体も——…目覚めたばかりではあるが、異常は感じられない。
アルは自らの身体をまさぐりながら、未だ眉尻を吊り上げている祖父に頭を下げた。
「…あの、ごめん、じいちゃん」
「許さん!暫く外出禁止だ!」
「えっ⁉オレが出かけなかったら物々交換はどうするんだよ⁉」
「私が行けばいいことだ。年をとっているだけで身体は極めて健康体だからな」
「いやいや!いくらじいちゃんが病気とか怪我とは無縁でも海には危険な生き物がたくさん——…」
「お前よりも長生きしている私のほうがその手の話には詳しいぞ」
睨みつけるようなオースの鋭い瞳に、アルは冷や汗を流す。これほど怒りを露にしたオースを見るのは初めてだった。常日頃から穏やかで優しいオース。そんな祖父に心配をかけてしまったことを、アルは深く反省した。
「…本当にごめん、じいちゃん」
「二度とこのようなことがないようにしておくれ」
「…はい」
首を垂れ反省の意を示すアルを見て、オースは彼の頭を撫でた。厳しい口調とは相反して、その手はどこまでも優しい。アルは少しだけ涙ぐんだ。
ふと、アルは昨夜出会った聖人二人の姿を思い出した。おそらく羽空とキララがここまで運んでくれたのだろう。
それと同時に、アルの脳裏に昨夜の地獄の光景が流れた。まるで鳩尾を殴打されたように急速に吐き気が催す。しかし、オースの手前嘔吐するわけにはいかない。アルは咄嗟に両手で口を覆うと、隠すように俯いた。
…夢であってほしい。嘘であってほしい。このまま時間が止まればいい。だって、いつものように市場に行ってもヒスイとサンゴはいないのだ。ムラサキとホタルにどう説明すればいい…?そもそも、昨日の今日である。あの村は市場から一番離れているし、A1大陸の住民はまだヒスイたちの村の惨状に気づいていない可能性がある。…いや、その前にアル自身、市場に行くためにはあの村を通らなければならない。またあの惨状をこの目で見なくてはいけないのかと思うと、心が引き裂かれるように痛い。
顔を歪め、青ざめるアルを見てオースは首を傾げる。
アルが夜明けまで帰ってこなかった理由についてオースは追及しないと決めた。なぜならば無事に帰ってきてくれた、その事実だけで十分だからである。
しかし、懸念点が一つだけ。アルの身を案じ一睡もできなかったオースは見てしまったのだ。明け方、意識のないアルを運んできた二人の見目麗しい少年たちを。
——あの方々はおそらく——…。
「………」
オースは静かに瞼を伏せる。できるなら、アルを聖人と関わらせたくはなかった。これがオース自身のエゴでしかないとしても。
オースはアルに気づかれないように溜息をつくと、市場に赴くために準備を始めた。
「…じいちゃん」
「ん?どうした、アル」
「オレも…一緒に行く」
「何を言っている?お前は外出禁止だ」
「頼むよ!じいちゃんの傍から離れないから!」
必死な形相で声を荒げるアル。オースはそんなアルを見て訝し気な顔をした。外出禁止が嫌だと言っているわけではないのだろう。それは分かるが、なぜ頑なに外出したがるのか分からなかった。
…昨夜、一体アルの身に何が起こったのだろう。追求するつもりはないが、初めて見るアルの表情にオースは心を痛めた。
「…絶対に離れないと約束するならば許そう」
溜息をつきながらオースは頷く。結局、祖父は孫に甘いのである。