砕けたカワセミ
——静かだ。
村を走るアルはそう思った。夜だからだろうか。それにしたって就寝時間には早すぎる。村に建つ家々の隙間から明かりが漏れているのに、声は全く聞こえない。
嫌な予感がした。ひどく嫌な感覚だ。
アルの首筋から、ぶり返した冷や汗が流れる。手足もなんだか冷たい。この静寂の中で自分の心臓の音さえも聞こえる気がした。呼吸をするのが苦しい。酸素をうまく吸えない。
なぜ、きっと、大丈夫なのに、ヒスイは無事だ。きっと笑顔で出迎えてくれるはずなんだ、それなのに、なぜ、なぜこんなにも——っ。
「ヒスイ!」
何度も訪れた見慣れた家の扉を開ける。
勢いよく開け放ったドアはゴツリと何か重たいものにぶつかった。それと同時に残酷なほど鮮明な赤がアルの視界に飛び込んでくる。床、壁、天井、見渡す限りの全てが血で染まっていた。
その光景と匂いに、アルは吐き気を催した。たまらず膝を折って激しい嘔吐を繰り返す。
何も見たくない、と脳は拒絶する。しかし、ヒスイを探さなければ、と心が肯定した。
生理的に流れた涙を乱雑に拭う。ふと扉の隙間に視線を移すと、指のようなものが挟まれているのが見えた。大きく目を開き戦慄する。
おそるおそる、アルは扉の裏側を見る。
それは身体から大量の血を流したサンゴだった。彼はくの字に身体を曲げたまま、手を必死に伸ばすように横たわっている。
「サンゴっ!」
飛びかかるようにサンゴを抱き締め抱え上げた。いつも愛らしい笑みを浮かべている彼の姿はここにはない。サンゴの顔に生気はなく、手足が力なくぶらりと垂れた。
言葉を失う。
目の前が暗くなったような気がした。悲しみ、苦しみ、痛みが、急速に心臓を駆ける。その感情ひとつひとつはとても強烈で、今にも叫び出したい衝動に駆られた。けれども、現状を理解できず、口から音は出てこない。
ふと、アルは扉が半分開いたままの部屋に視線を向けた。
サンゴは扉のすぐ傍で倒れていた。まるで何かに吹っ飛ばされたように。そして、サンゴは何かに手を伸ばすように身体を曲げていた。
びちゃり、と一歩進む。
アルの動悸は激しくなり、脳内で警鐘が鳴り響いた。
行ってはいけない。見てはいけない。
心の奥底で自分自身が警告する。
けれども、そんな自身の心に反して身体は一歩、また一歩と足を踏み出した。
だって、あの部屋は、あの扉が半分開いたままの、あの部屋は——、
「アル!」
部屋に入る一歩手前で、追いついたキララがアルの肩を掴む。アルは背後のキララを僅かに振り返って泣きそうに顔を歪めた。
「アル…、入らないほうがいい」
瞼を伏せて悲痛そうな表情を浮かべるキララを見てアルは絶望を感じた。分かっていた。気づいていた。でも、認めたくなんかなかった。
アルの瞳からボロボロと涙が零れる。そして、そのまま膝を折って慟哭した。キララはそんなアルの背を撫でて、彼が抱えているサンゴの姿を見る。もう既に手遅れだった。
泣き崩れるアルと慰めるキララ。そんな二人をすり抜けて、羽空はアルが入ろうとしていた部屋に足を踏み入れた。
その空間はまさに地獄絵図。
一面の血の海と人間だったであろう肉塊、鼻が曲がるような悪臭に、魂が腐るような禍々しい呪い。それらが部屋中に充満していた。たまらず羽空は顔を歪める。ドロドロとした黒い呪いは、命ある生物がやってきたことを歓喜しているらしい。ひどく醜い笑い声が羽空の耳に届いた。
「…はあ、本当に気持ち悪い」
この呪いは聖人が精製した呪いである。
この世界には六つの大陸があり、それぞれの大陸をそれぞれの聖人たちが監視している。人々はどうやら聖人は人間を守ってくれるメシアだと思っているようだが、その実態は随分と違う。管理ではなく、監視なのだ。人間と友好を深めようとする聖人もいるが、ほとんどの聖人は人間とは一切の関わりを断ちたいと思っている。ただそれだけならばいい。しかし《皇帝》というチームの聖人たちは人間を嫌い、激しい殺意を抱いている。こうして、人間を殺すために呪いを飛ばしてくるほどに。
呪いは汚い雄たけびを上げながら羽空に突進した。羽空が瞬きをする間に、呪いは一瞬にして距離を詰める。おそらく、この村の人間たちの魂を食い尽くして、呪い自身が強力になっているのだろう。
羽空は突進してきた呪いを軽い動作で避ける。呪いはそのままの勢いで壁をぶち破り、アルとキララがいる居間に飛び出した。
「うわっ!びっくりした!おい、羽空!」
「ごめーん。あんまり気持ち悪いから触られたくなくて」
「武器でスパっと切れよ!」
「だって、海愛がオレのために作ってくれた武器だよ?こんな気持ち悪い汚物が触れるなんて許せなくてさ」
軽口を叩きあう羽空とキララ。そんな二人の態度が気に食わないのか、呪いは速度を上げ家中の壁を突き破り始めた。アルはサンゴの身体を抱き締めながら破壊されていく友人の家をただ茫然と見つめる。何が起こっているのか分からない。
ふと、アルは視線を感じた。三人しかいない建物で確かに視線を感じたのだ。その視線に反射的に顔をあげる。そして、目を見開いた。
ヒスイだった。
破壊された壁の向こうにヒスイがいた。ベッドの上で、ヒスイの柔らかい瞳がアルを見つめている。彼の瞳に光はない。そして、首から下もなかった。
ああ、とアルは再び大粒の涙を流す。ヒスイは笑っていた。きっと、呪いがヒスイを蝕む前にサンゴを突き飛ばしたのだろう。大切な弟を守るために。痛かっただろうに。苦しかっただろうに。それでも尚。
ヒスイは本当にどこまでも優しい人間だった。
「っぐ、許さねえ…」
沸いたのは激しい怒り。
アルの脳裏に、ヒスイの笑顔が浮かんで消えた。
呟かれたアルの怒りの言葉にキララは目を見開く。羽空も少し驚いたようにアルを見つめた。ボロボロと涙を流しながらアルは立ち上がる。そして、激しい怒りのままに口を大きく開けた。
「ヒスイは!すっげえいいやつなんだ!優しくてかっけえとこもあって、いつもオレたちのために人一倍頑張ってくれて!…きっと、自分が、っ、自分が死ぬってわかって、せめて弟を助けようとしたんだ!痛いのに!苦しいのに!辛いのに!サンゴのために笑ったんだ!…ヒスイが何したっていうんだよ⁉返せ…!オレの大切な親友を返せよっ…!」
悲痛そうに叫ぶアルの姿にキララは眉尻を下げる。呪いはそんなアルに向けて嘲るような下卑た笑い声をあげた。そして、獲物を見つけたと言わんばかりにアル目掛けて突進する。アルにはそれが見えなかったが船上の時のような怯えの表情はない。ただ、強く歯を食いしばり眼前を強く睨みつけた。
呪いがアルに飛びかかる。先ほどまで靄のような形状だったそれは、アルの身体を引きちぎるため手の形に変化した。再び人間の魂を食えると喜んでいるのか、それは汚い笑い声をあげる。
しかし、呪いがアルに触れる寸前、羽空が僅かに腕を動かした。
直後、呪いは汚い声で霧散する。何事かとアルは瞳を瞬いたが、右手に何かを持っている羽空を見て瞬時に理解した。
「…羽空、様。オレのこと…」
アルは目を見開いて羽空を見つめた。
視界に映る、羽空の背中。風に揺れる雪景色のような銀色の髪。アルの瞳がチカチカと明滅する。この光景を知っているような気がした。
羽空の手には銀色の細長い何かが握られていた。アルにはそれが何かわからない。生まれてから一度も見たことがないものだった。
「キララ、レッドベリルを探してきてくれない?」
「ああ、あれを壊さねえと呪いは消滅しないからな。けど、食ってる人間の魂が桁違いだぜ、また襲ってくる。アルは…」
「ここに置いて行っていい」
「!…おう、わかった」
キララは羽空の言葉に目を見開いて大きく頷く。羽空がそう言うのなら、アルを守ってくれるということだろう。キララは建物を見回すと、一際空気が淀んでいる部屋に足を踏み入れた。先程のアルの反応から、おそらくここはヒスイの自室なのだろう。アルは船で始終ヒスイの安否を気にしていた。とすれば、レッドベリルはヒスイの近くにあると考えるのが自然だ。
部屋に足を踏み入れて、キララは悲し気に目を細めた。
ひどい有様だったのだ。
アルを止めて正解だった。アルに連れられてこの村に着いた時、まず感じたのは死の匂いと呪いの禍々しい気配。一目でこの村の人間が全滅していると分かった。
キララはベッドに転がるヒスイの頭部に近づくと、手のひらで彼の瞼を閉じた。大切な者の死を前にしてアルはどんな気持ちだっただろうか。キララは考える。自分なら到底耐えられない、と。そして同時に、このような悲劇を生み出す者を許せないとも思った。例え同じ聖人だとしても、人間を嫌悪していたとしても、決して許されることではない。
静かにベッドから離れて部屋を見回す。一面の血の海に、引きちぎられたヒスイの身体が浮かんでいる。キララが目を凝らすと、棚の下から腐臭漂う呪いの匂いがした。
棚の下に手を伸ばす。出てきたのはヒスイの手だった。指をゆっくりと開いて手の中を確認すると、キララの予想した通り怪しく輝くレッドベリルが顔を出した。
「羽空!」
見つけたそれを羽空に向かって投げる。もはや意味を成していない壁を越えて、呪いの元凶である宝石は宙を舞った。それはまるで抵抗するように妖しく鈍い輝きを放つ。
しかし、そのような抵抗は意味を成していない。
羽空はレッドベリルに向けて嘲笑すると、問答無用で呪いを一刀両断した。
増殖した黒い靄が霧散する。
小さく溜息をついた羽空は「あのキモ集団、絶対滅ぼす」と心底嫌そうに顔を歪めた。
*
「あ、の…羽喰様…守ってくれて、ありがとうございます」
キララがヒスイの部屋に呪いの元凶を探しに行ってすぐ、アルは羽空に向けて礼を述べた。羽空はそんなアルを一瞥すると「勘違いしないでほしいんだけど」と前置きをして続ける。
「オレはお前の命が大事だったわけじゃない。今お前が死んだとしても何とも思わない。礼を言うならオレにじゃなく、お前の身を案じたキララに言えば?」
部屋の中央で黒い靄が凝縮する。先ほどの羽空とキララの会話通り、レッドベリルという宝石を破壊しなければ際限なく呪いは生まれてくるようだ。それは再び高速で羽空に飛びかかる。しかし、それもまた武器で一掃した。
「この呪い、戦闘能力低いうえに知能も虫以下。話にならないなあ。本当に殺すこと一点にしか重点を置いてない。能力もバカなら術者もバカだね」
「…キララ様には感謝してもし足りません。けど、オレ、羽空様にも感謝してます」
「…?何の話?」
「礼を言うなら羽空様にじゃなくて、キララ様に言えって話っす。羽空様はオレのことを助けてくれた。あなたがどういう意図でオレを助けたとしても、助けられたことに変わりないっす。だから、ありがとうございました」
「………」
アルの力強い瞳に羽空は口を閉ざす。その間にも次々と襲い来る呪いを切り伏せた。
「お前は憎くないの?お前の大事な人を殺したのは聖人だ。そして、オレも聖人だよ」
「なんで、それで羽空様が憎いって話になるんすか…?」
「そういうものでしょ」
霧散した呪いを手で払いながら、羽空はアルを見つめた。
羽空の瞳に映るアルの瞳は、どこまでも透き通っている。まるで、この世の醜いものを何一つ知らないかのように。…いや、きっと知らないのだろう。怒りや悲しみを抱くことはあっても、憎しみや恨みを抱くことはない。
——今の人間たちは、おそらくそう作られている。
羽空は溜息をつきながら、再度武器を構えた。
「オレの嫌いな物を教えようか。それはね、吐き気がするほど醜い人間だよ」
「みにく、い?」
「そう。…誰だって自分が一番大切だ。自分の命が、じゃない。自分の心が一番大切なんだ。例えば、大切な誰かを守るために自分が代わりに死ぬ選択をしたとする。それはね、その大切な誰かを失うことに耐えられないから。その大切な誰かを失ってしまったら、悲しくて苦しいから。自分の心を守るためにその選択を選ぶんだ。それ自体は生き物の心理だけど…自分の心を守るためにどんな醜悪なことでもする人間がいるんだよ。オレが嫌いなのはそういう人間」
羽空の瞳が憎々し気に細められる。その冷たい瞳にアルは背筋を凍らせた。
「自分の命を守るために子供を犠牲にする親、自分が愉悦を得るために弱いものを甚振る外道、自分の目的のために他者の命を奪う屑、こられは全て自分の心を守るためにしていることだ。そしてオレはそんな人間を星の数ほど見てきた。オレが人間を嫌っているのはこれだけが理由ってわけじゃないけど、汚いし、気持ち悪いでしょ?」
「…そんな、人間が、本当に…?」
「信じられない?実在した生き物の話だよ」
羽空の嘲笑にアルは唇を噛み締めた。
羽空の話が嘘だと疑っているわけではない。けれど、アルが生きてきた中で、そのような人間には一度も出会ったことがないのだ。みんな心穏やかでとても優しい。悪人なんていやしない。詐欺にあったことも、盗みをされたこともない。そして、アル自身そんなことをしようとも思わない。それが普通だと思っていた。
羽空は言葉を続ける。彼の口調や瞳からはありったけの軽蔑と怒り、そして憎悪が滲み出ていた。
「そんな汚くて醜悪で気持ち悪い人間ばかり見てきたから、久しぶりに今の人間を——…お前を見て驚いたよ。お前みたいな人間は…まあ、昔も少数はいたかもしれないけど、オレは全く会ったことがなかったから。良かったね、お前はマシな生き物で」
「………」
「あれ?怒った?本当のことを言っただけだけど」
「…いや、オレ、生まれてこの方そんな人間に会ったことがなくて、うまく、想像がつかねえっていうか…」
「…まあ、綺麗に掃除されて、もういないしね」
「え、」
羽空が何事か小さく呟いた。しかし、その声はアルの耳には届かない。アルは首を傾げたが羽空は答える気がないのか、襲い来る呪いを切り裂くことに集中した。
と、その時。
「羽空!」
と、キララの声。羽空がそちらを見ると、キララが腕を振って何かを飛ばした。明かりに照らされてきらきらと光る赤い宝石。羽空はそれを見て嘲笑すると、問答無用で一刀両断した。破壊された宝石が黒い靄と共に霧散する。羽空は溜息をつくと「あのキモ集団、絶対滅ぼす」と心底嫌そうに顔を歪めた。