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 ギコ、ギコ。

 いつもよりも重たい船を懸命に進める。大切な友人たちのおかげで油は十分にあるため、ランプの火が消えることはないだろう。暗い海と空に輝く白い月。月は夜空によく映え美しいが、この真っ黒な空と海は恐怖心を煽る。

 夜の海は静かだ。まるで、この世界にひとり取り残されたような、そんな感覚になる。そして、この真っ暗な海を見ていると、先程の少女の言葉が頭を過る。

——どうかお気をつけてお帰りくださいね。今宵はきっと、とっても恐ろしい夜になりますわ——

 アルは少女の光のない瞳を思い出し、ぶるりと震えた。

 彼女は一体なぜあんな言葉を——?

 オカルト好き?嘘?冗談?中身のない言葉?

 …いいや、そうは思えない。あの真っ暗な瞳も、言葉の裏に隠れた感情も、偽りには思えない。それに、警告するように告げたあの言葉には、少しの挑発が見え隠れしていたような気がする。


「っ、なんだ…?」


 思考の最中、アルは突然何かに背中を押された。

 咄嗟に後ろを振り返るが、そこにあるのは積荷だけ。当然である。船に乗っているのはアルだけだ。

海の生物が船にぶつかったのかとも思ったが、そのような重い衝撃ではなかった。アルは訝しげに眉間に皺を寄せる。原因を追究したいが、ここは夜の海。多くの危険が伴うこの場所に長居は出来ない。とりあえずは帰路を急ぐしかないだろう。そう思い、オールを握りしめた。瞬間。


「っ、うわああ!」


 またもや背中を押されたような衝撃。加えて、先ほどよりも強い力。アルは勢いよく顔面から品物に突っ込んだ。衝撃で、袋から飛び出た小麦が鼻を擽り、大きなくしゃみが夜の海に響き渡る。

 一体なんなんだ…——!

 心中でそう叫んで、アルは勢いよく後ろを振り返った。


「……っ、」


 そして、息を呑む。

 アルの背後には黒い靄のような、そんな何かが不気味にゆらゆら揺れていた。一目見ただけで、虫が背筋を這っているかのような気持ち悪さを感じる。同時に急激な寒気。

 アルは直感的に理解した。自分は今死を前にしていると。この靄は自分を殺そうとしているのだと。

 靄はゆっくりと船の積荷を撫でる。そうしてアルが瞬きをした瞬間、人の手の形に変わった。五本の指、華奢な腕、しかし形を寄せているだけだ。以前それは靄に変わりない。

 呼吸は荒れ、心臓が激しく脈動する。先ほどの少女に出会った時も恐怖を感じたが、それの比ではない。死だ、死が目の前にいるのだ。怖くてたまらない。逃げたい。けれども、どこにも逃げられない。

アルの脳内に急速に何かの映像が流れてくる。ヒスイとサンゴの笑った顔、ムラサキの困った顔、ホタルの仏頂面、そして、心配そうな祖父の顔。…ああ、これは走馬灯というやつなのだろうか。

 手の形をした靄はしばらく品物を撫でていたが、やがてアルに気づいたように大きく手を広げた。そして、勢いよくアルの首に手を伸ばす。

 飛びかかってきたその手は、アルの首を掴み上げ、ゆっくり、ゆっくりと浮上した。


「…っ、ぐ——」


 息が、息ができない。

 アルは咄嗟に靄の手を払いのけようとしたが、その手に触れることは出来なかった。

 靄の手はアルの首を力強く掴んだまま、その身体を持ち上げる。

 呼吸が出来ない苦しさで意識が混濁する。

 為すすべなく、アルは顔を歪めた。


 ああ、嗚呼、オレ——死、…。


 ——瞬間。

 ザシュ!と何かを切り裂くような音がアルの耳に届いた。

 それと同時にアルの首を掴んでいた手の形の靄が霧散する。靄はひどく醜い断末魔をあげながら目の前から消えた。


「っ、ごほっ、うっ、はあっ、!」


 靄の手が消えたことにより、アルは上空から小舟の上に落ちた。

 船に叩きつけられた衝撃と、酸素を急激に取り込んだ衝撃で、激しい咳が口から飛び出す。同時に、じわりと涙も浮かんできた。

 一体何が起こった…?

アルは冷や汗を滝のように流しながらそっと自らの身体を抱きしめた。まるで自分の身体ではないかのように震えがとまらない。それは口内にまで及んでおり、口を開こうとすると奥歯が何度もガチガチとぶつかった。


「おい、あんた。大丈夫か?」


 震えるアルの肩に誰かの手が添えられる。動悸はそのままに顔をあげると、眉尻を下げた眉目秀麗な少年が心配そうにアルの顔を見ていた。


「…ぇ、あ…」

「キララ。人間なんかに構わなくていいでしょ」

「まあまあ、そんな怒るなよ、羽空(はく)。助けたのお前じゃん」

「不可抗力。別に助けたくもなかったよ。そもそも自分の身も守れないくせになんでこんな夜に海の上にいるわけ?バカなの?」

「あー…、ごめんなー、少年。あいつ口悪くてさ」


 少し困ったように笑う眉目秀麗な少年——キララは未だ震えるアルの背中を優しく撫でた。その温かい手つきにアルの恐怖と困惑がゆっくりと凪いでいく。そこで、やっとアルは周りを見渡せるようになった。


「あ、」


 キララの数歩後ろに立つ、息を呑むほど美しい少年。月光に煌めく銀髪に、色素の薄い紫色の瞳。右頬には金色の紋様のような絵が描かれている。その少年にアルは既視感を感じた。身体から光が発されているのではないか、と思うくらい彼は輝いている。そのあまりの神々しさに目が離せないでいると、その視線に気づいた羽空はアルを睨みつけた。


「不快。見ないでくれない?」

「…あ、すんません…」

 瞬時に謝罪する。


 とても美しい少年だが、その口から発される言葉は毒のようだった。

 縮こまったアルと仁王立ちする羽空を交互に見たキララは、申し訳なさそうにアルの顔を覗き込む。

 羽空は息を呑むほどに綺麗だ。神々しく、まるで美術品のような美しさを放っている。それに対してキララは、美しいというより単純明快に非常にハンサムなのである。漆黒の髪も深紅の瞳も彼によく似合っており、見たことがない服装や装飾品もキララの整った顔立ちをよく映えさせていた。よく見ると額の右側に羽空と同じ形の紋様のようなものが見える。

確か、聖人には痣のようなものがある、とムラサキの祖母は話していたそうだが、もしかして、いや、もしかしなくても——。

 アルは改めてまじまじとキララの顔を見る。羽空と違って別段見られることに不満はないのか笑顔で小首を傾げた。


「どうした?震えは止まってるみたいだけど具合悪いのか?」

「あ、いえ…なんでもないっす」

「そっか?あ、オレはキララ。キララ・アーネット。あんたは?」

「…うっす、アル・デッダーっす」

「キララ!そんな奴に名乗らなくていい」

「はいはい。あっちにいるのは美鏡羽空(みかがみはく)。呪いからあんたを助けたのは羽空なんだ。礼言っとけな」


 ——呪い…?

 今、呪いといっただろうか。アルは目を見開いて先ほどの靄があった場所に顔を向けた。呪いだなんてそんなもの、生まれてこの方見たことも聞いたこともない。しかし、先ほどアルが感じた恐怖は本物だ。あれはアルを殺そうとしていた。明確な死だった。

 俯いたアルは再度自らの身体を抱きしめる。キララはそんなアルを心配そうに見つめたが、羽空は興味なさげに溜息をついた。


「で?怯えてるとこ悪いけど、あの呪いどこで持ってきたわけ?」

「え、いや…わかんねえっす…だって、今日もいつも通り市場に行って、いつも通り品物と交換してもらって…」


 そうだ。いつも通りだったはずだ。大切な友人と久しぶりに談笑して、大好きな祖父のもとへ帰る。本当にいつも通り——、


「あ、」


 今日の出来事を思い返して、ひとつだけいつもと違うことがあることに、アルは気づいた。けれど、それはほんの少しの変化だ。害も加えられていない。それに彼女はヒスイの村の村長の娘だと言っていた。ありえない。そう思うのに、どうしても少女のあの瞳が、光がない暗闇の瞳が頭から離れない。

 だんまりを決め込んだアルに、羽空は再度溜息をつく。

そして、緩慢に海水の上を歩くとアルの船に近づいた。一見すると何もない船。けれど異変は必ず船の上にある。羽空はちらりとアルを見て目を細めた。心当たりはあるようだが口を開かない。

…なんとも面倒だ。命に別状はないようだしもう放っておけばいいのに、キララは随分と面倒見がいい。

羽空は三度目の溜息をついて船に積まれている品物を海に放り投げた。

 ぼちゃん、ぼちゃり、と品物が海に投げ出される。キララは大きく目を見開き、アルは声にならない悲鳴をあげた。


「オレの食料!水!生活用品!」

「うるさいなあ。このオレの力になれるんだから光栄なことでしょ?」

「天使の顔して悪魔!ジャイアニズム!」

「おー、アル。難しい言葉知ってるなー」

「じいちゃんがよく教えてくれて…って、捨てないで!捨てないでください!」


 涙目になりながら品物を海から拾い上げるアル。そんなアルを不憫に思ったのかキララも海に落ちた品物を拾って船に戻してやった。しかし、羽空は知らん顔で品物を漁っている。そして、船の端に転がる赤い石を見つけた。人間の目にはおそらく映らない。けれども、羽空の目にはしっかりと見えている。その石から滲み出る呪いの痕跡を。


「羽空、それ…」

「うん。かなり強い呪いだ。対象を殺すためだけに作られてる」


 羽空とキララの神妙な声に、品物を拾っていたアルが顔をあげる。羽空の手にのっている赤い石は見たことがないものだった。

 一体なぜそんなものが自分の船に…?

 アルが首を傾げると羽空は視線を移し、その宝石のような瞳をアルに向けた。羽空の視線はアルの背中をなぞり、そして後ろポケットで止まる。何だか居心地が悪くなり身じろぐと、羽空は美しい顔を僅かに歪めた。


「この石、お前のポケットに入ってたみたいだけど?」

「…え、?」

「お前には見えないだろうけど、オレたちには呪いの痕跡や残滓が見える。そして、それはお前の背中とポケットにまとわりついてる。つまり、誰かがこれをお前のポケットに入れたってこと」

「…そ、んなわけ…だって、そんな石見たことないっす。それに、ポケットに入れられたっていうならかなり近くにこねえと——…」


 言い終わる前に、アルは件の少女を思い出して口を噤んだ。

 少女は去り際、アルに近づいてきた。そして、意味深な言葉を告げた。

 疑いたくなどない。けれども、疑いたくなるほどに異質であったのも事実。

 アルの瞳が困惑で揺れる。羽空はそれを見て溜息をついた。

口を開かないアルをそのままに、羽空は手の中の赤い石を破壊する。直後、靄のように霧散した石を見て、キララは羽空の手元を覗き込んだ。


「宝石を壊したら呪いが完全に消えたな」

「うん。キララ、気づいた?この宝石」

「ああ、レッドベリル。《皇帝》の連中が好んでつけている宝石だ」 

「虫唾が走るよ。どうしたらあんなに気持ち悪く生きれるんだろうね」

「もしかして、これ。A1大陸だけじゃなくて、他の大陸にもばらまいてるんじゃないか?」

「だとしたらかなりの被害がでる。まあ、知ったこっちゃないけど」

「全くお前は…。せめて《聖剣》の奴らには知らせてやんねえと」


「…被害、って死ぬってことっすか…?」


 ぽつり。呟いたアルの言葉に羽空とキララは顔を見合わせる。羽空はアルの質問には答えずに明後日の方向を向いた。キララはそんな羽空の頭をこずいてアルと目を合わせる。


「そうだ。さっきアルが震えていたのは死を前にしたからだろ?この呪いは人を死に至らしめる。多分、これに呪いを込めたやつは沢山の人間を殺そうとしてるはずだ」


 キララの言葉にアルは瞳を潤ませて唇を噛んだ。明確な殺意を持って誰かを殺そうとしている?それはとても怖いことだ。殺意を持っている者も、殺意を向けられた者も、そのどちらも恐ろしい。

ずっと平和だと思っていた。これからもこんな時間が続くと思っていた。いつか結婚して、家庭をもって、大切な友人たちと酒を飲みながら昔話をして、そんな平和な未来が、必ず訪れるとそう思っていたのに——。

 そこまで考えて、アルは恐ろしいことに気がついた。


「ヒス、イ」


 そうだ。そうだそうだそうだ。

 ヒスイは少女から手紙をもらっていた。もしも少女が黒幕だというのなら、あの黒い靄がヒスイを襲うかもしれない。少女のヒスイに対する恋心が偽物とは思えないが、アルを殺そうとしたかもしれない人間だ。何をしてくるかわかったものではない。

 アルは咄嗟にキララの服の裾を掴んだ。先ほどとは違って焦ったようなアルの表情にキララは目を見開く。


「聖人様!」

「アル?」

「あんたたちは…聖人様、っすよね⁉お願いです!助けてください!ヒスイがっ…!オレの友達が殺されるかもしれねえ!」

「……羽空、」


 アルの悲痛そうな表情にキララは眉尻を下げる。助けを求めるように羽空の名を呼ぶと、彼は眉間に皺を寄せてキララの服を掴むアルの手を叩き落とした。


「気安くキララに触るな。人間」

「羽空!」

「随分都合がいいよね。何でオレたちがお前らを助けないといけないの?誰が好き好んで嫌いな生き物を助けたいと思うわけ?」

「羽空、やめろ!」

「八十年前の大災害がどうして起こったのか知ってる?あの大災害のせいで、オレたちがどれだけ傷ついたか——いや、大災害が起こる前からお前ら人間の行いは酷いものだったけどね。よく考えてよ。お前は大嫌いで、憎くて、恨んでいる相手を助けたいと思う?」

「羽空!いい加減にしろっ!」


 切迫した表情のキララが羽空の肩を掴む。羽空はキララを見てばつが悪そうな顔をすると、口を閉じてアルから目を逸らした。


「…アル、ごめんな。アルはなにも悪くねえのに気分を害しちまったな。羽空は、その…あんまり人間のことを…好ましくは思ってねえけど、普段はこんな初対面で感情を露にするような奴じゃないっていうか…あー、これじゃフォローになってねえな…」

「…嫌ってる、って…。だって、聖人様はオレたち人間を守ってくれている存在なんじゃ…」

「なにそれ。その冗談全然笑えないんだけど」


 羽空の自嘲気味な笑みにアルは大きく目を見開く。

 …一体どういうことだ。大陸に伝わる昔話とは全然違う。聖人は人間が生きていけるように大陸を守ってくれたと、そう伝え聞いている。しかし、目の前にいる聖人は人間を嫌悪し、大災害が起こったのは人間が原因だと言っている。

 そこまで考えて、アルは下唇を噛んだ。理解してしまったのだ。自分は何も知らない無知な人間だと。こんな無知な人間に聖人が力を貸してくれるわけがない。

アルは一度深呼吸をするとオールを握りなおす。そして、船を回転させると陸地まで戻るため船を漕ぎ始めた。

 この時間の波は特殊である。A1大陸の周囲は一定の時間——日が落ち始めてから日が昇るまで——陸地から海に向けて大きな波が流れる。人間たちはこの波をビッグウェーブと呼んでいた。アルがどれだけ積荷を載せても船を漕げるのはこの波の力が大きい。

 つまり、ビッグウェーブの時間帯である今、アルが幾ら陸地に戻ろうと船を進めても無意味なのである。それはアル自身にも分かっていた。けれでも、行動せずにはいられない。聖人を頼れないというのなら、アルが一人でヒスイを助けに行くしかないのだから。

進んでは押し戻され、また進んでは押し戻されを繰り返すアルの小舟。そんなアルの様子を見ていたキララはそっとアルの肩に手を置いた。


「アル」

「離してください…、オレ、行かないと…ヒスイが…!」

「その友達がすごく大切なんだな」

「当たり前じゃないっすか!大切です!失いたくない!あれが…さっきのあれが、ヒスイを襲うと思うと…っ、!」


 アルのその言葉にキララは目を見開く。羽空も小さく瞳を揺らした。

そんな二人の様子に気づかないアルはキララの手をそのままに再度船を漕ぐ。やはり船は少しも進まないが、諦めるつもりは毛頭なかった。

 そんなアルの姿を羽空は黙って見つめていた。

 仲間。その言葉は羽空にとって特別だ。

羽空にとっての仲間、すなわち《絶唱》のメンバーたち。この大嫌いな世界で唯一大好きな仲間たち。羽空が命に代えても守りたい大切な存在。アルという人間にとってのそれが、今助けに向かおうとしている人物。その事実に小さく心が揺れた。

羽空は自分の心臓の辺りを撫でてそっと目を閉じる。人間は今でも嫌いだし、助けたくもない。けれど『仲間』を助けるために必死になっているこの少年を見捨てれば、自分の嫌う汚い人間たちと同類だ。

 目を開けると、キララが真っ直ぐな瞳で羽空を見ていた。言葉を交わさずとも彼が何を言いたいのか羽空は瞬時に理解する。相変わらず、キララ・アーネットという聖人はどこまでもお人よしで優しいやつだ。


「人間」


 いつまでも進まない船を漕ぐアルを上から見下ろす。月明りの下、アルと羽空の視線がしっかりと絡み合った。


「場所は?」

「え、」

「だから、場所は?どうして急に言葉を理解できなくなるわけ?頭のネジでも外れた?」

「え…?助けて、くれるんっすか…?」

「キララがそうしたいみたいだからね。感謝しなよ」

「う、あ、はい…!ありがとうございます…!」


 アルの視界が歪む。安堵からか今にも零れ落ちそうなほどの涙が目の淵に溢れた。しかし、急激な息苦しさに襲われ、その涙はすぐに引っ込む。おそるおそる首を後ろに回すと、無表情の羽空がアルの首根っこを掴み上げていた。

 アルの頭上に疑問符が浮かぶ。状況はいまいち飲み込めないが、息苦しさから解放されるため首と服の隙間に指を挟んだ。先ほどよりも呼吸はしやすくなったが、このままでは指が圧迫されそうだ。

 首根っこを掴まれぶらぶらと揺れるアルに羽空は嘲笑する。その顔は明らかにアルを馬鹿にしたような表情だったが、現状どうすることもできないアルは甘んじてその笑顔を受け止めた。


「羽空、遊んでる場合じゃねえって。急がねえと」

「わかってるよ。とりあえず陸地に行こう」

「あ、やっぱりこのまま行くんすね⁉」


 アルの首根っこを掴んだまま羽空は軽快に走り出す。その後にキララも続いた。

 暗い海の上を二人の聖人が駆けている。大きな満月が空の上からそれを眺めていた。はたから見ると幻想的な光景に違いない。アルが船を漕ぐよりも、アルが陸上で駆けるよりも、二人の足はずっと速かった。歩いたことはないし、そもそも歩けないが、走りにくそうな海面を物ともせず、まるで飛ぶように羽空とキララは進む。

 …なぜだろう。なぜだか胸が痛い。泣きたくなるほどに心臓が苦しい。

 突如揺さぶられた心臓にひどく戸惑う。ふと夜空を見上げると、沢山の流れ星が暗闇の中を走っていた。まるで羽空とキララに連動するように、二人と同じく軽快に駆けるように幾重もの星が流れる。アルは目を見開いた。ムラサキの言った通りだ。流れ星は聖人とともに現れる。初めて見るその光景は幻想的で非現実的で、そしてどこまでも美しかった。

ふと、ムラサキの言葉を思い出す。

 ——流れ星に願いを込めると、叶うそうですよ。

 …そうだ、ムラサキは確かにそう言っていた。もしも、それが真実なら…。

 アルは顔を上げて、満天の星々を見つめた。

 そうして、空を駆ける流星に切に願う。


「ヒスイを、助けてくれ…」


 力強く目を閉じ、懸命にアルは呟いた。大切な親友を助けてほしい、と。

 流れ星と共に海を駆け、気づけば陸地に着いていた。

 海を脱したからかアルは投げ捨てられるように地面に落とされる。砂利道のため地味に痛かったが今は文句を言っている場合ではない。

 ヒスイとサンゴの住む村は目と鼻の先だ。急がなくては——!

アルは膝に付着した砂や小石をそのままにヒスイの家へと全力で駆けた。羽空とキララはそんなアルに声はかけず、ただ村を見つめて眉間に皺を寄せる。神妙な表情の二人は顔を見合わせるとゆっくりとアルの後を追った。

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