戦火の真相
静寂に包まれた暗闇を歩き続ける。
互いに口を閉ざし、言葉はない。
しかし、羽空、蒼滴共に警戒の色は最高潮に達していた。
暗闇の先。僅かな光が灯る場所。その場所から真っ直ぐに、肌を焼くような敵意が飛んでくる。
二人は無意識に得物を握る手に力を込めた。
光が近づく。
先導を羽空、その後を蒼滴が続き、二人は光の中に飛び込む。
先程よりも鋭い、刺すような敵意。その敵意の先には、不気味なイルカのぬいぐるみが転がっていた。
そのぬいぐるみには瞳がない。
解れた糸の隙間からは綿が溢れ、その体躯も泥水や煤のようなもので汚れている。
しかし、羽空がそれよりも気になったのは部屋の惨状だった。
まるで大型の獣に引っ掻かれたような傷。見境なく壁を殴ったような跡。抉り潰された天井や床。
一見すると戦闘後のような惨状だが、そうではないと羽空の勘は告げていた。
羽空は一瞬だけ瞳を伏せ、すぐに開く。
そして、背後で武器を構える蒼滴に向けて淡々と告げた。
「蒼、下がれ」
刹那。獣の牙のような鋭い攻撃が何百、何千と羽空に襲い掛かる。それらを全ていなしながら、羽空は僅かに片眉を上げた。
「…なるほど。《愛猫》はこいつをオレに当てたかったってことか」
全ての攻撃をいなした羽空は溜息をつきながら得物を振るう。
……それにしても随分舐められたものだ。この程度で美鏡羽空を圧倒できると思っているとは。
羽空は再度溜息をつく。背後で「おい! 下がれとはどういう了見だ! 私がこの程度の攻撃に対処できないとでも思っているのか⁉」と叫ぶ蒼滴の声が聞こえたが無視した。
羽空はイルカのぬいぐるみを見つめる。
ぬいぐるみは声を発さない。声を出す余裕がないのか、そもそもそんな機能がないのか。しかし声に出さずとも、羽空にはぬいぐるみが何を言いたいのか理解できた。
羽空は目を閉じる。
イルカのぬいぐるみは大きく震えると、自らの身体から攻撃を飛ばした。壁が抉られ、床が弾け飛ぶ。そして、その攻撃は羽空と蒼滴へ命中した。
二人の身体が切り裂かれる。その体躯から煌びやかな漆黒の液体が噴き出し、二人の身体は四方に散らばった。
イルカのぬいぐるみの攻撃は止まらない。
二人は既に息絶えている。だというのに、ぬいぐるみは未だに攻撃の手を止めなかった。否、止められないのだ。
ぬいぐるみの攻撃は部屋全体を破壊しただけでなく、この《愛猫》のおもちゃ箱にまで及ぶ。おもちゃ箱全体が破壊され、粉々になり、あらゆる場所から困惑と驚愕の声が聞こえる。
崩れるおもちゃ箱。
破壊され尽くした《愛猫》のホームから、海が見えた。漆黒の海。イルカのぬいぐるみが久しく見ていない海。
だって。
——だって、わたしが海に出たら、海洋生物を殺してしまうから。
イルカのぬいぐるみは海を見つめた。仮初のぬいぐるみの肉体に眼球は存在しないが、そも聖人は眼球で〝見る〟わけではない。故に、眼球自体は必要不可欠ではない。あれば便利だというだけだ。
——ああ、こんなことを考えている場合ではない。
早く攻撃を止めなければ。
ムリダ。
また海洋生物を殺してしまう。
ムリダ。
《愛猫》の仲間たちは無事だろうか。
ムリダ。
……無理だ。
この肉体が壊れるまで、能力は止まらない。
《皇帝》の連中はそれを分かっていて、あんな条件を——。
「へえ。それって、どんな条件?」
びくり、とイルカのぬいぐるみの身体が震えた。
聞こえるはずがない声。聞こえていいはずがない声。それが耳元で聞こえる。
ぐにゃり、と視界が歪む。
まず飛び込んできたのは、不機嫌そうな蒼滴の顔。次いで、
「聞こえてる? どんな条件かって聞いてるんだけど」
恐ろしいほど朗らかな羽空の笑顔。
なぜ?どうして?どのように?
イルカのぬいぐるみは信じられないものを見る目で羽空を見つめた。そして、気がつく。目の前に海など見えない。そもそも壊したはずのこの空間は壊れてなどいない。
幻術?いいや、しかし。
困惑するイルカのぬいぐるみに向けて、羽空は笑う。
「イルカの姿を模しているだけあって、海洋生物に愛着でもあるわけ?」
羽空の指がイルカのぬいぐるみを撫でる。一見すると穏やかで優しい手つき。しかし、その指先は驚くほど冷たかった。
「まあ、それは個人の自由だし、オレの仲間も海洋生物とよろしくやってるけど、でもさあ。海洋生物の命は重視するのに、同類の命は重視してくれないんだ?
——物凄く腹が立つ」
氷のようなゾッとするほど冷たい瞳。
それを真正面から受けたイルカのぬいぐるみは、身体を硬直させた。
〝逃げなければ〟
そう思うのに、身体が全く動かない。この根源的恐怖をイルカのぬいぐるみは知っている。まるで《皇帝》のリーダーと出会った時のような、圧倒的強者を前にした抗うことができない現実。
イルカのぬいぐるみの存在しない脳裏に、かの男の姿が過る。この世の全てを呪っているような、この世の全てを否定しているような、そんな目をしたあの男。
羽空は僅かに目を細めると美貌を微塵も崩さず、イルカのぬいぐるみを片手で潰した。
布と綿になったそれは羽空の足元に落下し、物言わぬ残骸に成り果てる。
まるで穢れたものに触れたかのように手を払う彼を見た蒼滴は「……あっけなく始末して良かったのか?《愛猫》のリーダーの情報を得られたかもしれないだろう?」と眉根を寄せた。
「そう見えてるなら蒼の目は節穴だね」
嘲るように笑った羽空に、蒼滴は青筋を額に浮かべた。
その時。
一触即発の空気の中、突如として壁が突き破られる。羽空と蒼滴が視線を移すと、水の奔流が空間に押し寄せていた。そして、突き破られた壁の隙間から見知った顔が姿を現す。
片手でキララを担いだ、メイクだ。
彼らは大量に水を飲んだのか、勢いよくそれを吐き出す。肌は一瞬変色したが、すぐに元の色に戻った。
「メイク! キララ!」
蒼滴は武器を構える。名前を呼ばれたメイクは羽空と蒼滴の存在に気がつくと大きく目を見開いた。
「蒼滴、羽空……! ここにいたんだ。じゃなくて、この水に触れないでよ、毒だから!」
「毒⁉ 大丈夫なのか、あなたたちは…!」
蒼滴は驚愕で目を見開いたが、こちらを向いたキララが親指を立てている姿を見て、彼の能力で無事なのだろうなと安堵した。
羽空はメイクの右手を見る。その手には彼の得物である矢が握られており、そして、矢の先にはウサギのぬいぐるみが貫かれていた。
「そいつがメイクとキララを襲ってきたの?」
「そ!でも倒した!キララがいなかったらやばかったけどさー」
羽空に向けてVサインを作ったメイクは、疲れたように微笑む。担がれているキララも相当疲弊したようで、静かに呼吸を整えていた。
「とりあえず、みんなと合流したほうがいいよね?それとも、敵のリーダーを探してボコるほうが先?」
「……そうだね、合流が先かな。この毒水を利用すれば少ない労力で壁を壊せそうだし」
天使のような笑みを浮かべた羽空は、矢で貫かれたウサギのぬいぐるみをつつく。非常に美しい笑顔だが、その瞳に一切の温情は含まれていない。ウサギのぬいぐるみは、これからの自分の未来を想像し、静かに震えた。




