海淵
絶体絶命のピンチに突如飛び出してきた影。
それは、アルの目にはスローモーションのように映った。まるで海のような深い青色の髪、同じく同色の瞳。口元に弧を描いたその人物は、実に楽し気にその場に着地した。
「海…⁉」
「やっほーセノラ!屋敷に帰ったらだーれもいないんだもん。探したよ~」
明るい笑顔でセノラに手を振る少年。手足は細くセノラよりも低身長だが、彼の身体から発されるオーラは強者のそれだった。
セノラが名前を呼んだことで、彼が《絶唱》の聖人最後の一人なのだとアルは理解する。緊張からごくりと唾を飲み込むと、エンボスの浮かぶ彼の瞳と目が合った。
僅かに、海は目を見開く。そうして小さく「お前…」と呟いた。
「…?…海?アルと知り合いなの?」
「…ううん☆まーったく知らない!ちょっと知り合いに似てるなーって思っただけ」
セノラの問いかけに笑顔で返す海はアルから視線を外す。そして、闘志の宿る瞳で猫耳の男を見つめた。
「で?全く状況は分からないけど、僕の仲間を傷つけたのは君ってことでオッケー?」
「うるさい!お前も死ね1」
「ええー?話通じない奴とか僕無理なんだけどー」
猫耳の男からの返答に、海は辟易したような顔をする。
しかし、そんな海の態度を気にしていないのか、男は再度腕を天に掲げ、空間を支配し始めた。部屋全体が唸り、形を変える。アルが不安そうに眉を下げると、セノラは「大丈夫」と彼の肩を叩いた。
瞳孔が開いている男の顔を、海は冷めた表情で見つめる。そして、重低音が響き、部屋全体がドラゴンのような姿に変わる——…と同時に、その身体は崩れ落ちた。
目を見開く猫耳の男。
海はステップを踏むように二、三歩後退すると、脇を締め、手のひらを男に向ける。そのまま三度、殴るように拳を前に突き出すと、鈍い音と共に猫耳の男の身体も崩れ落ちた。
一体何が起きたのかまるで分からない。
一瞬の出来事にアルが言葉を失っていると、セノラが再度アルの肩を叩いた。
「海は《絶唱》の中で羽空に次いで二番目に強い。そして、彼は元《皇帝》の聖人なんだ」
セノラの言葉を聞きながら、アルは海を見つめる。振り返った彼は可愛らしい笑顔で小さく手を振った。
*
「ええーっ!じゃあ、今《愛猫》の聖人たちと交戦中なの⁉」
そんな楽しいこと、僕抜きでやるなんてー‼と続けて、海は床にごろごろと転がった。頬を膨らませてジト目でこちらを見る仕草は可愛らしいが、彼の隣にはボロボロの猫耳の男が倒れている。大小様々な打撲痕があるその男は、意識さえないが命に別状はないようだ。アルはほっと息を吐くと同時に、海の戦闘能力の高さに薄ら寒さを感じた。
「…とりあえず、海がさっき倒したその男が《愛猫》のリーダーっぽいし、他のメンバーを探すためにここから出ようよ」
「オッケーオッケー☆じゃあ念のためにこの猫耳も連れて行こっと!」
セノラの言葉に頷いた海は、意識がない猫耳の男の足を掴む。そして、そのままずるずると彼を引き摺って歩いた。
明るく快活で、何よりも《絶唱》の聖人のひとりである海。
しかし、先程セノラから聞いた《皇帝》の聖人だったという話がどうしても引っかかる。
アルはスキップで先導する海の背中を見つめながら眉間に皺を寄せた。
…《皇帝》A1大陸の人間たちを殺そうとした聖人。ヒスイとサンゴ、彼の村に住む人間は《皇帝》の聖人に皆殺しにされた。結果、羽空が助けてくれたとはいえ、あの時の悲しみや絶望を忘れたことは一度もない。今まで出会ってきた聖人たちからも《皇帝》の評価はいいものではなく、所謂〝悪人〟なのだと思っていた。
今、目の前を歩いている少年は元《皇帝》の聖人。しかし、今は《絶唱》の聖人。アルは何とも形容しがたい気持ちに襲われ、自らの胸を僅かに撫でた。
「ねーねー、そういえば君がキララの友達のアルなんだよね?」
「うぇ…⁉はいっ!そうです‼」
「あはっ☆なあにー、その返事―?」
何が面白かったのか、大笑いする海は腕をぶんぶんと振り回す。その反動で猫耳の男は何度も頭をぶつけ先程よりも怪我が増えていた。
「さっきのセノラの話に疑問点があるんだけど、君どうやってセノラを拷問から助けたの?」
「拷問…?」
アルは海の言葉を復唱すると、先程の巨大な人生ゲームを思い出した。
海とセノラに見つめられながら、アルは僅かに苦笑する。
助けた、と言われてもアルは何もしていない。ただ——…、
「オレ、昔からかなり運がいいんすよ」
「運がいい…〝強運〟ってことー?」
「端的に言えば」
アルは昔から、大陸で流行っているゲームで負けたことは一度もない。先程のような運が絡むゲームなら尚更だ。
今までこの強運に疑問を持ったことはないが、しかしそれはヒスイの顔が生まれつき整っていたり、ホタルが生まれつき仏頂面であることと同義だと思っていた。
アルは僅かに首を傾げる。
海は「強運ねえ…」と低い声で呟くと一瞬だけ思案するように瞳を閉じた。しかし、彼はすぐに瞳を開け笑顔を浮かべる。ころころ変わる彼の表情はどれが本心なのか分からなかった。
「ま、とりあえずみんなと合流だ~!レッツゴー☆」
話は終わりだと言わんばかりに、猫耳の男を引き摺りながら駆ける海。猫耳の男は頭をぶつける度に痛そうな唸り声を上げた。
アルとセノラは顔を見合わせ、そんな海の後に続く。
先程まで爆音を聞き続けていたからだろうか。部屋の外の空間は異様に静寂で、アルの背中に冷たい汗が流れる。
なぜ《愛猫》がA4大陸の人間たちを襲ったのか、その理由は未だ分からない。そして《絶唱》《聖剣》の聖人たちの安否も未だ不明だ。
アルは小さく息を吐くと、セノラの肩を抱いて一歩進む。
なるべく早くこの戦いが終わればいい。そう思った。




