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兎の毒

 セノラ・ラディアス。

 彼はもともとチームには所属していない、野良と呼ばれる聖人であった。

 八十年以前には野良聖人は数多く存在しており、みなそれぞれ海の中で自由気ままに暮らしていた。

 当時、チームの存在理由は今とは異なり、人間を監視するためではなく、互いが互いを支えるための家族のような集団だった。

 人間とは違い、少数である聖人。人間よりも強靭な肉体を持っているとはいえ、心はある。寂しさを紛らわせるためにチームを作るもの、生きていくうちに自然とチームになったもの、様々だ。

 セノラは彼らとは違った。

 聖人の身体には血液は流れていないが、兄弟というものは存在する。兄であったり、妹であったり、はたまた姉であったり弟であったり。なぜそのような概念が存在するのかは分からないが、生まれた時から、一目見た時から、兄弟が兄弟であることを理解できてしまうのだ。

 それはセノラも例外ではない。

 彼には六人の兄がいた。チームなど作らなくても、大切な兄弟たちがいた。故に、セノラは野良と呼ばれる聖人であることをたいして気にも留めていなかった。

 セノラの世界は六人の兄たちだけだった。それがセノラの全てだった。兄たちが帰ってくる家を守り、暖炉の前で他愛ない会話をする。おはようからおやすみまで、セノラの瞳に映るのは兄たちだけ。それで良かった。それが幸せだった。


 それなのに——。


 目を閉じれば、今でも鮮明に思い出せる。

 真っ黒な体液にまみれた、物言わぬ兄たちの屍を。

 心を巣くう恐怖を。暗い絶望を。激しい激情を。

 今でもずっと、覚えている。



「セノラ様!」


 アルの声に、セノラはハッとして意識を前方に向けた。

 仲間たちが襲われているかもしれないという焦りから、意識がどこかに飛んでいたようだ。

 セノラは眼前に迫る鋭利な積み木を躱しながら、緊張感のない己を僅かに恥じた。

 心の中で大きな舌打ちをすると、アルを抱えなおし回転しながら大鎌を振るう。セノラに迫っていた積み木諸共、その場だけ抉り取られたように巨大な空洞ができた。

 ひゅう、とネコのぬいぐるみが楽しそうに口笛を吹く。

 刹那、空洞は一瞬にして新たな積み木で覆われた。


「キリがない…!」


 眉間に皺を寄せながら、セノラは焦ったような声を漏らす。

 セノラの焦りも無理はない。致命的な攻撃を受けていないとはいえ、この空間に出口はなく、一方的に攻められているだけだ。

 アルはそんなセノラを一瞥すると、高所で高見の見物をしているぬいぐるみに向けて大声を張り上げた。


「この野郎っ…様!降りてきやがれ!ください!」

「けなしたいのか敬いたいのか、どっちなの…」


 アルの声に対し、セノラは何とも言えない顔をする。

 ネコのぬいぐるみは退屈そうに欠伸をすると、アルの声など聞こえていないかのようにころりと寝転がった。

 昼寝の体勢を取るぬいぐるみとは相反して、空間はまたもや変動する。

 部屋中の積み木が踊るように、セノラとアルの周囲を取り囲んだ。

ネコのぬいぐるみは高く口角をあげる。


「アイアンメイデン♪」


 歌うようなその声と同時に、二人を取り囲んでいた積み木は凝縮し、内部で幾度も対象を突き刺した。

 …しかし、手応えはない。

 ネコのぬいぐるみは不思議そうな顔をしたが、天井に張り付くセノラとアルの姿を捉えて目を細めた。

 セノラの髪がはらりと床に散る。外傷を負ってはいないものの、今の攻撃で髪を一房失ったようだ。

 ぬいぐるみはそんなセノラを見つめて嘲笑した。


「足手まといがいると大変だにゃー。そんなお荷物は捨ててしまったほうが懸命なんじゃないか?」


 汚い笑い声をあげながら、ぬいぐるみはそう言った。

 やっとまともに会話をしたと思えば、随分下卑たことを言う布の塊だ。

 セノラは瞳を鋭く尖らせると、一切迷いがない声で明瞭に口を開いた。


「キララの友人を見捨てることは、仲間を売ることと同義だ」

「キララ?…ああ、あの襟足の長い黒髪の男か。にゃにゃにゃ、奴の相手をしているのは——ウサギか」


 ネコのぬいぐるみは虚空を見つめる。セノラとアルに視認することは出来ないが、ネコのぬいぐるみの視線の先には、この〝おもちゃ箱〟に迷い込んだ聖人たちの姿が映っていた。



「キララ、キララー、いい加減起きてよー」


 気怠げな声がキララの耳を刺激する。ゆっくりと浮上する意識と共に目を開けると、不満そうにキララを見下ろすメイクと視線が交わった。


「あ、やっと起きた」


 キララが目覚めたことを悟ると、メイクはパッと顔を明るくさせて彼の髪から手を離す。

 毛根に若干の痛みを感じたキララは、彼がキララを起こすために髪を力強く引っ張っていたことを悟った。


「ここは…」

「さあ?でも、分断されたみたいだねえ、オレたち」


 軽い口調で顎に手を添えるメイクを見てキララは苦笑する。

 立ち上がり周囲を見渡すと、鉄のような物質でできた密室に、閉じ込められていることに気がついた。窓も出口も、家具や調度品もない。この部屋に存在するのは、キララとメイク、そして部屋の隅に転がるウサギのぬいぐるみだけだ。

 二人は顔を見合わせる。そして、無言で武器を構えた。

 メイクの武器は矢だ。《聖剣》はほとんどの聖人が剣を武器とするが、メイクだけは例外だった。剣を振ることも勿論可能だが、彼は拳で振るう武器よりも、飛び道具が好きだ。遥か高く、遠く遠くへ飛んで行く矢は、自由に空を舞う鳥に似ている。

 部屋の片隅に転がるぬいぐるみが敵だとは限らない。しかし、怪しいことこの上ない。

 メイクは紅白の矢を握ると、ダーツのようにそれをぬいぐるみへと投げた。およそ人間が目で追うことができない速度で、それはぬいぐるみへ突き刺さる。

 しかし、それだけだった。

 矢が突き刺さったぬいぐるみは何の反応も示さない。

 メイクとキララは訝し気に眉根を寄せると、ゆっくりとぬいぐるみへ近づいた。

 刹那。

 ひゅ、と風を切る音と共に、得体の知れない何かが高速で飛んでくる。メイクは咄嗟にキララを背後に突き飛ばすと、彼を庇うように矢を構え前方に飛び出した。

 虹色メイクは、ソルである。

 高速で飛んでくるものが刃物であっても弾であっても、避けることは容易い。顔の真横を掠めた何かを目で追うと、それが液体であることが分かった。


(…透明な液体…、水か——?)


 心中で呟きながら、強く床を蹴って矢を投げる。同時に三本投げたそれは外れることなくウサギのぬいぐるみを貫いた。

 しかし、ぬいぐるみは先程よりも大量の水を噴出しながら鋭利な水の矢を放つ。

 何本もの矢が突き刺さったウサギの胴体はびっしょりと濡れ、毎秒ごとに水の量が増えているようだった。

 メイクは訝し気に目を細める。

 …水を噴出すだけの能力?そんなはずはない。聖人にとって水は脅威ではないし、高速で飛んでくる水に殺傷力はあれど容易に避けることは可能だ。なにか、なにか意図があるはず——…。

 メイクはぬいぐるみを注視する。

 目の前のぬいぐるみが《愛猫》の聖人であり、敵であることは分かった。しかし、なぜ一方的に攻撃をしてくるのか。A4大陸の人間を布の塊にしたとはいえ、会話をする意思もないようだ。《皇帝》の聖人と親しくしている以上仲良くできるとは思えないが、推理小説よろしく動機くらいは話してほしい。


「きみ、問答無用で攻撃してきてどういうつもり?」


 疑問は口にするべきだ。

 そう思ったメイクは矢を構えながらまっすぐとウサギを見据える。


「《愛猫》の聖人たちは何が目的でオレたちと敵対したの?」


 メイクの鋭い瞳にウサギのぬいぐるみはぶるぶると震える。その身体から噴出す水は滝のような量になっていた。

 ぬいぐるみは何も言わない。メイクは深く眉間に皺を刻むと、更に質問を投げかけようと口を開いた。

 しかし、メイクが言葉を発する前に、焦ったような声色でキララがメイクの名前を呼ぶ。


「なあに、キララ。敵から目を逸らせないから簡潔に言って」

「床に水が張って、足首まで沈んじまってる」

「気にすることなくない?オレたちにとって水は脅威じゃ——…」

「違う!この水、何か変だ」

「…変って…」


 メイクが疑問符を浮かべるのと、彼の手から矢が落ちるのはほぼ同時だった。

 眼前でぶるぶる震えるウサギのように、メイクの手が激しく痙攣する。目を見開いて自らの腕を見ると、白い肌が青紫色に変色していた。

 すると、今まで無言を貫いていたウサギのぬいぐるみが、ひどく悲し気な声色で小さく唸る。


「…ウサギの能力〝聖人を殺せる毒の水〟もちろん、人間にも有効」


 まるで天井から吊るされているように、ウサギの身体がゆっくりと宙に浮く。


「…さっき、ウサギに〝問答無用で攻撃した〟と言ったけれど、攻撃したのはお前が先。ウサギを矢で貫いた。


 ——だからこれは、正当防衛」


 ゆらゆらと、ウサギのぬいぐるみは身体を揺らす。

 メイクは「はあ?」と苛立ちを含んだ声を漏らすと、先程よりも鋭く瞳を尖らせた。


「正当防衛?ふざけんな。先に攻撃しかけてきたのは——A4大陸の人間たちを襲ったのはそっちだろうが」


 これは《聖剣》の仲間たちにも、《絶唱》の友人たちにも、誰にも話したことがない、秘密の話。

 虹色メイクという聖人は、A4大陸の人間たちを大切に思っている。

 人間嫌いの聖人が多い中で、そのような発言は決してできないけれど。

 本当は仲間内の誰よりも、今回の襲撃に腹を立てていた。


 メイクは変色した拳を強く握り締めると、再びウサギに向けて矢を構える。

 その瞳には煮え滾った闘志と激しい怒りが宿っていた。

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