The beginning of the beginning
警戒するアルを尻目に、謎の幼女を視界に入れたキララは嘆息した。
そして若干低い声で「…べに」と彼女の名を呼ぶ。名を呼ばれた幼女は朗らかに笑った。
「キララ様、お知り合いっすか…?」
キララが警戒していないのだ。恐ろしい聖人ではないのだろう。そう判断したアルは僅かに力を抜く。すると、幼女は勢いよくアルに顔を近づけ「ふむ」と眉間に皺を寄せた。
「ただの人間か。《絶唱》に入った新しい野良聖人かと思ったぞ」
そう言って、目を細めたべにはアルからゆっくりと距離を取る。
表情も仕草も口調も、とても幼女だとは思えない。彼女は聖人だ。実年齢は外見年齢とは比例しないのだろうが、毎日のように大陸でサンゴと顔を合わせている身としては、子ども扱いしてしまいそうになる。
アルは改めてべにの頭から爪先までをなぞる様に見た。
紅色の長い髪は艶やかで、見たことがない衣服は華やかだ。表情も相まって可愛らしいというよりは美しい顔立ち。しかし、餅のように膨らんだ頬が可愛らしさも捨てていない。
べにはアルの視線を左程気にしていないのか、キララにお代わりを要求する。キララは再度嘆息すると首を横に振った。
「お前が全部食っちまったからもうねえよ。それに、もう野良聖人なんていねえだろ。羽空が星中探し回ったし、もしいたとしても《皇帝》の連中に…」
そこまで言って、キララは辛そうに口を噤む。
アルにはキララの言葉の続きが分からなかった。しかし、べにはそれが理解できたのか、キララ同様悲し気な顔をした。
「それもそうだな。しかし驚いた。海の上に家があり、そこに住んでいる人間がいるとは。大陸で暮らしたほうが安全だろうに」
「…それは、そうっすね。でも、じいちゃんが決めたことだし、なんだかんだオレもこの生活が気に入ってるんで…」
「ほう、変わり者だな」
べにはイスの上で胡坐をかきながら目を細める。
目の前の幼女が恐ろしい聖人ではないことは分かった。しかし、エンボスの形もキララや羽空とは違うし《絶唱》の聖人ではないのだろう。以前、キララから紹介された聖人の中にも、幼女と一致する人物はいない。明らかに羽空の双子の妹ではないだろうし、あまりホームにいないという〝海〟という聖人でもない。
そんなアルの意が汲み取れたのか、キララは苦笑しながら彼の肩を叩いた。
「アル、紹介するよ。こいつは紅べに。《聖剣》のリーダーで、オレたちの同盟相手。覚えてるか?」
「…!あ、はい!」
キララの言葉に頷きながら、アルは前回受けた説明を思い出した。
六つの大陸にはそれぞれ、担当の聖人がいる。《聖剣》というのは確か、A4大陸を担当する聖人のチーム名だったはずだ。その名に因んで、エンボスの形も〝剣〟なのだろう。
アルが納得したように頷くのを見ながら、べには大きく目を見開いた。
「どうした、べに」
「いいや。ただの人間に聖人の知識を与えていることに驚いただけだ。羽空は知っているのか?」
「ああ。羽空もその場にいたしな」
「ほーん?やはり、ただの人間ではないのか?」
べには再度アルに顔を近づける。
アルは大きく首を横に振りながら「ただの人間っすよ!べに様!」とイスから飛び上がった。
「いや?ただの人間じゃないだろ?」
「え、キララ様…?」
「オレの友達だ」
「…!」
キララの言葉に、アルは大きく目を見開く。そして、唇を真一文字に引き結んだかとおもうと、次の瞬間思いきり破顔した。
友達、友達、友達——。
その言葉をアルはこれ以上なく嬉しく思った。今なら天にだって昇れるかもしれない。
そんな有頂天なアルを見て、べには再度目を見開く。べににとって人間は監視するためだけの生き物。それ以上も以下もない。ましてや、人間と友人になろうなど考えたこともなかった。
ふむ、と心中で頷きながら、べには顎に手を添える。そして、大きく口角をあげた。
「面白そうだ」
「…?べに、何か言ったか?」
「いいや、何も」
べにの表情にキララは若干警戒の色を浮かべる。
彼女は強く、頭もいい。しかし、愉快犯の節がある。
キララが眉間に皺を寄せるも、べにはどこ吹く風で「それよりも、私がここにいる理由、気にならないか?」と首を傾げた。
「うちのホームに用があったんじゃないのか」
「まあな。しかし、今回は私だけではなく《聖剣》の全員でやってきた」
他のメンバーは泳ぐのが少し遅くてな。置いてきてしまった。と続けて、べには妖艶に微笑む。
キララはべにの言葉に目を見開くと「全員で…?」と彼女の言葉を復唱した。
「それは、只事じゃねえな…」
「ああ、監視するべき人間を置いて、聖人全員で遠出など使命に反する。まあ、今はその〝監視するべき人間〟が一人もいないのだがね」
「は…?」
淡々とした口調で、べには驚くべき事実を告げた。
キララは大きく目を見開いて、べにの言葉をゆっくりと咀嚼する。そして「…どういうことだ?」と震える声で問いかけた。
「安心しろ。死んだわけではない。しかし、二度説明するのは面倒だ。詳しくは《絶唱》のホームで話そう」
そう言ってべにはイスから立ち上がる。神妙な面持ちで頷いたキララは、アルに向けて苦い笑みを浮かべた。
「アル、悪いな。そういうわけだからオレはホームに帰るよ」
「あ…、うっす!もちろん!折角来てくれたのに、なんのもてなしもできなくて…すんません」
「いいって、気にすんな。オレが勝手にきただけだ。それよりも、お前のじいちゃんが帰ってくるまで、くれぐれも気をつけろよ」
「はい…」
キララの表情は、あの惨劇の夜に見た顔とよく似ていた。彼の表情から察するに、べにが持ってきた難事は非常に危険なものなのだろう。
アルはキララの言葉に頷いて、彼らを見送るために立ち上がる。
すると、べには怪しい笑みを浮かべながら「何を言っている?」とアルの腕を掴んだ。
「お前も事の経緯が気になるだろう?ならば、我らと共に来るといい」
「へ…?」
「…!べに!何する気だ⁉」
べにの突飛な行動に気づいたキララは、アルに向かって手を伸ばす。
しかし、べにはその手をすり抜けて、アルを担ぎ屋外へと飛び出した。
急激な陽光に、アルは一瞬瞼を伏せる。
べにの楽し気な笑い声と、キララの焦ったような声が聞こえた。目を開けようと瞼に力を入れた瞬間、べにはアルごと海へと飛び込んだ。
水の中故かキララの声は届かない。しかし身体の内側から、もがくような自身の声が聞こえた。
人間は水中では呼吸ができない。
べにはその事実を知らないのか、笑いながら海の底へと泳ぎ始めた。
息苦しさで頭が朦朧とする。
ぼやける視界の中、キララらしき人物が後を追ってきているのが見えた。しかし、べにの速さには追いつけないのか距離がどんどんと離れていく。
意識が途切れる寸前アルが見たのは、鯨の大きな口だった。




