救世主
アルとオースの家は一面を海に囲まれているが、小舟に乗って一時間もすれば陸地に着く。
アルはいつものように砂地に船を固定すると、一番近い村で荷車を借り、都心まで歩いた。都心は更に一時間ほどかかる。
アルとオースの生活は非常に困難だ。しかし、オースは陸地で暮らす気はないようでアルもアルで今の暮らしが気に入っていた。オースからは何度も「友達もいるようだし、海の上での生活は大変だろう。お前が望むなら陸で暮らすといい」と言われてはいるがその気はないのである。
今日の荷車は重く、都市まで運ぶのに二時間ほどかかってしまった。急がなければ質のいい品物がなくなってしまう。
見えてきた市場の賑わいに、自然と口角があがる。常に祭りのようなこの賑わいがアルは好きだった。荷車を引きながら市場に足を踏み入れると、突如飛び出してきた小さな影が行く手を遮った。
「アルお兄ちゃん!」
その影は喜々とした声でアルの名を呼んだ。そしてそのまま彼の腰に突撃する。背中に回された手は力の限りアルの服を掴み、その表情は太陽のような笑顔だった。
「サンゴ、昨日ぶりだな」
腰にしがみつく赤毛の少年——サンゴはきらきらと瞳を輝かせて顔をあげる。アルに名前を呼ばれて嬉しいのか、サンゴは彼の腹に頭を押しつけると楽しそうに笑った。
そんなサンゴの頭を撫でていると「アル、今日は随分遅かったじゃないか」と市場の奥から少年が現れた。
「お、ヒスイ!…って、相変わらず大人気だな」
「ありがとう。君もどう?質のいい肉をとっておいたよ」
品よく笑う青年——ヒスイ。彼は市場で一番人気の肉を扱う家の息子である。そして、アルの一番の友人であり、このA1大陸で最も女性に人気のある男でもあった。
相変わらず、彼の荷車には女性からの贈り物が大量に積まれている。
アルは唇を尖らせると、ヒスイの差し出す肉を見つめながら溜息をついた。
「へーへー、交換させていただきますよ」
「何不貞腐れてるんだい。おや、今日は大漁だね」
「おう!貝もあるぞ!」
「わあ!ほんとだ!美味しそうだね!」
アルが荷車から積荷を卸すとサンゴはアルの手元を覗き込んだ。同様に、ヒスイもアルの手元を覗き込んで感嘆の声を漏らす。
「確かに美味しそうな貝だね。それに形もいい。ところで、いつもより市場に来るのが遅かったけど、何かあったのかい?」
「いいや?大漁で荷車が重かっただけだぜ」
「そう。それは良かった。アルもオースおじいさんも海上に住んでいるから、何かあったんじゃないかっていつも心配になるよ」
ヒスイは困ったように笑うと、アルを手伝って荷車から魚を卸し始めた。
市場での物々交換に難しいルールはない。
A1大陸の中央市場には大きな大木があり、その大木を囲うようにしてドーナツ型の大きなテーブルが設置されている。各々はそのテーブルに持参した品物を並べ、気に入った品物があれば交換の交渉をする。
品物は様々だが、一番の高級品は砂糖である。
六つの大陸にはそれぞれ、特産品やその大陸でしか入手できないもの、入手しにくいものが存在する。アルたちの住むA1大陸は湧き水が豊富だ。故に、水にはあまり困らないが、果物やサトウキビは育ちにくく、入手が困難である。勿論、全く育たないわけではないが、それらの入手には他大陸の行商人の存在が不可欠だ。
アルは改めてヒスイの荷車を見る。
可愛らしくラッピングされた贈り物の大半は菓子類だ。この菓子類はヒスイに恋をする女性たちが、彼の興味を引こうと用意したものである。
砂糖は入手しにくい品物だというのに、その砂糖を使ってまでヒスイに贈り物をする女性たち…。
「お前って…罪な男だよなあ」
「突然なんだい?あ、そういえば、今日はムラサキとホタルも市場にいたよ」
「お、あいつらも来てんの?久々に全員揃ったな」
ヒスイの言葉にアルは大きく破顔した。
ヒスイ、サンゴ、ムラサキ、ホタル。アルはA1大陸の人間皆と良好な関係を築いているが、この四人は特別な存在だった。
幼い頃、初めて陸地に訪れたとき最初に声をかけてくれたのがヒスイだった。当時、ヒスイは赤ん坊だった弟のサンゴを腕に抱いていた。そして、そのヒスイの隣に仏頂面のホタルが、少し離れた場所でこちらの様子を窺がっていたのがムラサキだった。
アルはその日、初めて大陸の地を踏んだ。物心ついてから会話をしたことがある人間はオースのみだったため、年が近い人間と会うのは初めてで、恐ろしく緊張したのを覚えている。けれど、皆心優しくすぐに仲良くなった。今では一等大切な友人である。
数年経ち、それぞれ仕事をし始めてから頻繁に会うことは少なくなったが、久しぶりに全員が揃っているというのだ。嬉しくないわけがない。アルが上機嫌に鼻歌をうたいだすと、気遣い屋のサンゴが勢いよく手を上げた。
「アルお兄ちゃん!僕がホタルお兄ちゃんとムラサキお姉ちゃんを呼んでくるよ!待ってて!」
そう言って、返事をする間もなくサンゴは勢いよく駆け出した。器用に人の合間を縫って走るサンゴはあっという間に市場の奥へ消えていく。その一連の流れを見ていたヒスイは「よっぽど嬉しいみたいだね」と小さく笑った。
「サンゴー、転ぶなよー」
「弟は運動神経も反射神経もいいし大丈夫だと思うよ。ところで、アル。干し肉と魚の干物が包んであるけど、これ売り物じゃないね?もしかして朝ごはん?寝坊でもしたかい?」
荷ほどきを手伝っていたヒスイが目ざとくそれを見つける。アルがへらりと笑うと、ヒスイは大きな溜息をついた。
「寝不足で航海するのは危険だよ。何かあったらどうするんだい?」
「いやー、別に寝不足ってわけでもねえよ。昨日はちょっと、昔の夢を見ててさ」
アルは天を仰ぎながら、昨夜見た夢のことを思い浮かべた。
——八年前の、嵐の日の夢。
あの日の出来事を忘れたことは一度もなかったが、成長するに連れて思い出すことも夢に見ることも少なくなっていた。けれど、昨夜、随分久しぶりにあの日の夢を見たのだ。まるで記憶をなぞるように、鮮明に明瞭に。
だからこそ、いつもより深く夢に浸ってしまったわけなのだけれどーー。
アルはジト目でこちらを見るヒスイに再度笑いかけると「大丈夫だって!体調が悪かったら無理せずじいちゃんに任せるからさ!」と勢いよく彼の肩を叩いた。
「全く信用できないけれどね」
明るく告げるアルとは相反してヒスイは低く唸るようにそう言った。
しかし、ヒスイは理解している。自分が何を言おうとも、アルという人間が頑固一徹だということを。
ヒスイは暫く鋭い瞳をアルに向けていたが、やがて折れるように溜息をついた。
「そういえば、ムラサキの親戚がスープの物々交換をしていたよ。すごく美味しそうだったから貰ってくる。待ってておくれ」
言いながら、ヒスイは自分の荷車から肉と卵を掴む。彼の言う通り、テーブルの反対側ではムラサキの親戚がスープを配っているのが見えた。加工食品は出品者の味付けの度合いで味も材料も大きく異なるが、ムラサキの親戚のスープは市場でも大人気だ。
アルがヒスイの言葉に頷くと、ヒスイは急ぎ足で人込みの中に飛び込む。その背中を見つめていると、ヒスイと入れ替わるようにホタルとムラサキの手を引いたサンゴが人込みから出てきた。上機嫌なサンゴはアルに気がつくと、軽くその場で飛び跳ねて大きく手を振った。
「アルお兄ちゃん、連れてきたよー!」
「おー、ありがとな!ムラサキ、ホタル、久しぶり!」
「おう」
「私とはこの間会いましたよ、アルくん」
「あ、そうだな。ムラサキはそんな久しぶりでもねえか」
「うふふ。今日は新しいお話が入手できたので、みなさんにお会いできて僥倖でした」
楽しそうに笑うムラサキにアルは少しだけ頬をひきつらせた。
ムラサキの話は面白いが話半ばで中断してもらわねば、半日は会話が終わらない。アルがホタルに視線を移すと、彼は無言で首を横に振った。
「ヒスイがいねえけど、どっか行ったのか?」
「あ、そういえば。ヒスイくんはどこでしょう。サンゴくんの話によるとアルくんと一緒にいると言っていましたのに」
「あー、ヒスイなら——」
「オレはここだよ」
アルの言葉に被せるように、スープとパンを持ったヒスイが戻ってきた。スープを交換しに行くと言っていたのに、パンの戦利品まで勝ち取っている。アルがその戦利品を見つめると、ヒスイは無言でアルの手にそれらを押しつけた。
「あら、ヒスイくん。朝食は済んだと言っていませんでしたか?」
「うん、オレはね。アルが朝食を食べてないって言うから、スープとパンを貰ってきたんだ。スープは人数分あるから、みんなもどうぞ」
「ありがとうございます。うん?このスープ…見覚えがありますね」
「ムラサキの親戚のとこのだろ。さっき見た」
「なるほど。そうでしたか。このスープ、今朝味見をしたのですけれど、とても美味しかったのです。みなさんにも食べていただきたいと思っていたんですよ」
両手を合わせて喜ぶムラサキに、ヒスイは笑顔を向ける。アルの手に預けていたスープを各々に配ると、皆一斉に温かいスープを口に含んだ。その柔らかく優しい味は一瞬にして冷えた身体を温める。アルがヒスイに礼を述べると「どういたしまして。…でも、食べながら話さないでくれるかな?」と少し顔をしかめた。
「そうだ、みんな。必要なものは交換出来たのかい?」
「ええ。荷車は家の男性陣にお任せしました。今日は質のいい布が手に入ったので、新しいお洋服でも作ろうかと思いまして。ああ、でも。アルくんのお魚と交換してもらうためのお水は小樽に一杯持っていますよ」
「オレも終わった。アル用の小麦は取ってあるから魚と交換してくれ」
「おお!すげえ助かる。ありがとな」
アルが嬉しそうにそう言うと、ムラサキとホタルは各々の品物をアルの荷車に乗せ、魚を数匹と貝を幾つか手に取った。ヒスイとサンゴも同様に、肉と卵をアルの荷車に乗せ、代わりに魚と貝を自分たちの荷車に乗せる。
それを合図に、様々な品物を持った島人たちがアルのテーブルの周りを取り囲む。皆、アルに一声かけながら、自分たちの品物をアルの荷車に乗せ、代わりに魚と貝を持って行った。
気づけば、あっという間に品物はなくなり、人込みも捌けていた。
この世界の人間にとって、魚介類は貴重な品だ。海は巨大な海洋生物の縄張りで、人間たちは海を恐れる。故に、多くの人間は進んで海に近づこうとはしない。だからこそ、こうして定期的に魚介類が市場に出品されることは、島人たちにとって貴重でありがたいことだった。
アルの品物が完全に捌けたことで、ムラサキが今だと言わんばかりに瞳を輝かせた。何が始まるのかは容易に想像がつく。
「では!仕事も終わりましたし、楽しいお話タイムと洒落込みましょう!」
「…それは構わねえけど、何の話をするんだ?」
「よくぞ聞いてくれました、ホタルくん!」
楽しそうなムラサキは、品物のなくなったテーブルの上に腰掛ける。それを見て、アルたちも自らの荷車に腰を下ろした。
「うーん、そうですねえ。今日は聖人様のおとぎ話でもいかがですか?」
「聖人様のそういった伝説はA1大陸全体で…ううん、他の大陸でも知らない人はいないくらい有名じゃないかい?」
「ええ、そうなんですけれど。今回は新しいお話があるのです」
「わーい!ボク、ムラサキお姉ちゃんのお話好きだよ!」
「あら!サンゴくんはいい子ですねえ」
満面の笑みを浮かべるサンゴの頭を、同じく満面の笑みを浮かべたムラサキが撫でる。
ムラサキは一度咳払いすると「まずは前回の復習から始めましょうか」と近場にあった木の棒を拾った。
「まず、アルくん。今、私たちがいるこの大陸がどこかは知ってますか?」
「知ってるよ。A1大陸だろ?流石に自分たちの住んでる場所くらいは分かるぜ」
「そうですね。では、ホタルくん。世界地図は描けますか?」
ムラサキは次にホタルの名を呼ぶ。仏頂面の彼は表情を一切変えずに、ムラサキの手から木の棒を受け取った。そして、地面に小さな丸を六つ描く。
「世界には大陸が六つある。A1大陸は、ここ。ちょうど中央の辺りだ」
ホタルは中央の丸にA1大陸という文字を書いた。
「ええ、そうですね」
「んで、右斜め上にも大陸がある。そこがN2大陸。N2大陸の右下はS3大陸。A1大陸の左斜め下の大陸はA4大陸。その隣がA5大陸で、その上がE6大陸だ」
言いながら、ホタルは六つの丸に文字を埋めていく。アルはホタルの描いた世界地図を見ながら数回頷いた。聡明なムラサキから色々な知識を得ているお陰で、世界地図くらいであればアルも知っている。
「世界には小さな大陸が六つあります。ここまでが前回のおさらいですね。まあ、ホタルくんは私が説明しなくても知っていましたが」
「じいさんからよく聞くからな。それに、A1大陸の外からやってくる行商人とも多少の関わりはある。そいつらから色んな話を聞くんだ。けど、外からの行商人と一番関わるのはムラサキだろ?オレが知らねえことも、ムラサキなら沢山知ってるしな」
「うふふ。ありがとうございます」
「外の大陸って、水の資源が少ないんだっけ?」
ヒスイの言葉にムラサキは頷く。
A1大陸は水の資源が豊富だ。そして、ムラサキの家は水を取り扱っている。外から来る行商人たちは、各大陸で取れた特産品を水と交換しに来るのだ。故に、ムラサキの家が一番、外の行商人と関わる機会が多い。
「ええ。かなり困窮しているようですね」
「A1大陸だって砂糖や果物は困窮してんだろ。お互いウィンウィンで商売出来ればそれが一番いい」
「流石、A1大陸一の商売人って言われているホタルだね」
「…それ、誰が言ってんだ…」
ヒスイがホタルの顔を覗き込んで笑う。しかし、ホタルは思いきり顔を歪めると、低い声で不満を漏らした。
「さて、ではここからが新しいお話なのですけれど、どうやら六つの大陸にはそれぞれ聖人様がいらっしゃるらしいのです!」
喜々として話をするムラサキに、アルたちは顔を見合わせた。
「え?その話、有名じゃねえ?」
「違いますよ。有名なのは、昔私たち人間を救ってくださった聖人様は実在し、この世界のどこかにいらっしゃる、というお話でしょう?私が言っているのは、六つの大陸それぞれに、というお話です」
ムラサキの言葉に、アルは納得するように頷いた。
「けど、この狭いA1大陸のどこにいらっしゃるんだい?ムラサキは見たことでもあるの?」
「それはありませんけど…、ええっと、この話のルーツは私の祖母なんです。祖母は以前A4大陸に住んでいたみたいで、色々あってこのA1大陸に移住してきたそうなんです。まだA4大陸に住んでいた頃、聖人様と会話をしたことがあるそうで、その聖人様から各大陸には聖人様がいらっしゃるとお話してくれたようです」
「へえ、」
「え、マジで?聖人様と話したって、ホントに?凄くね?」
「はい!私も凄いと思います!」
ムラサキはキラキラと瞳を輝かせながら、アルの言葉に賛同した。
「でも、どこにいるんだろうね?」
「うーん、そうなんですよね。もしかして、異空間とか異次元とかにいらっしゃるんでしょうか…」
「ガチのオカルト話じゃん」
「そうは言いますけど、この世界には未知のものが沢山ありますし、可能性はゼロではないと思います。それに、オカルトという話なら、そもそも八十年前に起こった豪雨と海水の話なんて、ガチのオカルトでファンタジーではありませんか」
「ああ、海水の上昇と豪雨だっけ?科学的に考えるとあり得ないみたいだね」
「雨は海水の水蒸気で出来てるからな。海水が上昇して雨も止まないなんて、マジであり得ねえ話だ。オレたちは経験してねえから実感はわかねえけど」
「とにかく、祖母から聞いた話によると聖人様は大陸を見守ってくださっているみたいなのです。後は、聖人様の特徴をお聞きしたのですが、お耳の横に痣のようなものがあったそうですよ」
「痣?」
「ええ。痣…というよりは、模様のような形をしている…刺青?みたいなものだったそうです」
「刺青…ああ、あれか。うちの村長の腕にある絵?」
ヒスイは自らの村の長の姿を思い浮かべる。豪傑な村長の腕には、可愛らしい動物の絵が描かれていた。幼少期にその絵のことを聞いたことがあるのだが、彼は懐かしそうな表情で、この絵は刺青という名前なのだと教えてくれた。
ムラサキはヒスイの言葉を拾って頷く。あの場にはムラサキもいたので、きっと昔のことを思い出しているのだろう。
「ええ。八十年前には、身体に絵を刻む技術があったそうですし」
「つまり、聖人様は刺青を彫ってるってことか?」
「さあ、それは分かりませんけれど。でも、なんだかロマンティックじゃないですか?聖人様は私たちを見守ってくださっていて、案外近くにいるかもしれないだなんて!」
きらきらと瞳を輝かせるムラサキを見て、アルは随分昔の記憶を思い出す。
八年前の真夏の夜。嵐の海から自分と祖父を助けてくれた銀髪の男性——、雨粒でよく見えなかったものの、とても美しい人だったように思う。そして確かに祖父は言ったのだ。彼を見つめながら『聖人様』と。彼がもしも聖人なら、アルとオースの危機を察知して、助けに来てくれたのではないか。その危機に気づいたのは、聖人がA1大陸を見守っているから…?
「…案外、あり得る話かもな」
「やっぱりアルくんもそう思いますか?聖人様がこのA1大陸に住んでいらっしゃると!」
「どうしたんだい、アル。ムラサキの話を否定するわけではないけど、オカルト話はあまり好きじゃないんだろう、きみ」
「いや、だって、ほら!ムラサキのばあちゃんが実際にそう聞いたんだろ?あり得ねえ話じゃねえじゃん」
訝し気なヒスイの視線から逃げるように、アルは慌てて大きく手を振った。
八年前の話をすればいいのだろうけれど、あの真夏の話はアルの生き方を大きく変えた出来事だ。故に、なんとなく、この話をヒスイたちにするのは憚られた。
「それよりも、ムラサキ!他に何か新しい話はねえの?」
明らかに目ざとい話題転換にヒスイは瞳を鋭く尖らせた。けれども、声をかけられたムラサキは気づいていないのか「…そうですねえ」と顎に手を添える。そうして、暫く頭を捻らせたあと、何かを思い出したように勢いよく顔を上げた。
「あ!ありました!ぜひ聞いていただきたい話が!星関連のお話なのですけれど、みなさんは流れ星って聞いたことはありますか?」
「流れ星?」
首を傾げたサンゴにムラサキは強く頷く。アルもヒスイも聞いたことがない単語に疑問符を浮かべたが、ホタルは何か心当たりがあるのか小さく頷いた。
「昔、じいさんがそんな話をしてくれた気がする。星っていうのは大抵同じ場所に輝いているらしいけど、時々、稀に、空を駆けるように流れる星が見れるって。…まあ、この時代には星そのものがねえから、オレたちには真偽のしようがないけどな」
「ええ、それはそうなのですけれどね。あ、そういえば流れ星に願いを込めると叶うらしいですよ。とても素敵ではないですか?」
「ムラサキお姉ちゃんが好きそうな話だねえ」
「うふふ。そうですね」
「でも、星ってすごく大きいんだろう?そんな大きなものが駆けるように流れるって…どういう原理なのだろうね」
「残念ながら、そこまでは私も分かりかねるのですが、今回のお話は流れ星の原理ではなく、言い伝えなのです」
「ムラサキお姉ちゃんが好きそうな話だねえ」
同じ言葉を復唱しながら、サンゴは隣のヒスイの腹に顔を埋める。ヒスイはそんなサンゴの頭を撫でると、ムラサキに視線を送り話の先を促した。
「おほん!こんなお話を聞いたことがあります。流れ星は聖人様が姿を現す時、共に現れ、空に数多の輝きを散らすだろう、と」
「それってどこ経由の話?」
「あ!疑ってますね、アルくん!」
心外だ、と頬を膨らませるムラサキに、アルは慌てて首を振る。ムラサキを疑っているわけではないが、彼女は一体このようなオカルト話をどこから入手してくるのだろう。先程も言っていた祖母だろうか。
——それにしても、流れ星。
アルは空を見上げながら目を細めた。空に輝く星でさえ想像も出来ないのに、流れ星だなんてもっと想像ができない。八十年前を生きていた人間の話は、どれも魅力的で蠱惑的だ。アルの見ているこの世界にはないものが多すぎて、正直羨ましく感じてしまう。
けれど。
「アル?空を見つめて黙っているけど、どうかしたかい?」
名前を呼ばれて視線を下げると、隣のヒスイが心配そうにアルの顔を見つめていた。それに笑顔を返してアルは首を横に振る。
八十年前にあったあらゆる文化、機器、自然を羨ましいと思う気持ちはあれど、きっとこの八十年後の世界にしかないものだって存在する。少なくとも、アルにとって大切な友がそれだった。昔と比べてこの時代に存在しないものは多いかもしれないが、それでもこの時代を生きていて良かったと、アルは心からそう思う。