指先で触れた星
「これが、人生最大の危機…?」
羽空は目の前の光景を見つめて淡々と呟いた。
《絶唱》のホームを出て深海から地上へと戻ったアルは、深刻そうな顔をしたまま自宅へと向かった。ポニーの口の中の移動は身体に大きな負荷がかかるため、帰りは羽空の手を借りて地上へと戻った。
アルが自宅に向かうと、そこは予想していた通りの光景だった。
半壊。家が半分削ぎ落とされている。
屋内は海水が浸水し、家具は粉々、備蓄していた食料も流され、家の下の魚用の檻も壊れている。
アルは絶望のあまり声にならない声をあげ家にしがみついた。キララはそんなアルの肩を叩いて慰める。羽空は呆れ顔で珊瑚の上に腰を下ろし、ポニーは楽し気に家の周りを泳いでいた。
オースは大陸へ行っている。現在時刻は夕暮れ。この時間ならば物々交換が終わり、オースは海へと船を漕ぎだすだろう。短く見積もってあと一時間。しかし、一時間足らずではこの惨状はどうにもならない。
アルは乾いた笑みを浮かべると、おもむろに手近の木片を掴み海へと放り投げた。
「アル!アル、おい、落ち着けって!自棄になるな!」
次々と木片を海に投げるアルの腕をキララが掴む。キララはアルに「心配すんなって。オレたちが手伝ってやるからさ」と爽やかに笑った。
「…!っ、キララ様!」
「そんな泣くなよ。目が腫れるぞ。とりあえず、材料の調達からだな。…にしても、この家って木造なんだな?」
「…?…木造以外の建材ってあるんすか?」
「…ん?」
首を傾げたアルに、キララも首を傾げる。羽空は先ほどと同じように「ああ、」と声を漏らすと「地上にはないんじゃない?」と淡々と告げた。
「…あー、なるほどな。うーん、木材か…」
「…木材は手に入りにくいんすよね…。大陸には木が沢山生えてるっすけど、伐採できる木は決められてるんです」
眉尻を下げるアルに、キララも難しい顔をする。
木材を調達できないとなると、家屋の修繕は難しい。《絶唱》のホームから建材を持ってくることは可能だが、地上に存在しないものを持ってくるのはよろしくない。二人で頭をひねらせていると、魚を眺めていた羽空が唐突に立ち上がった。そうして、海面を歩きながらぐるりと家の周りを一周する。
「この家って珊瑚に囲まれてるんだ?」
「あ、そうっす!この固い珊瑚を利用して家を建ててるってじいちゃんが言ってました」
「珊瑚の硬度は大体人間の歯と同じくらい。この程度の固さで巨大魚たちを退けるのは難しくない?」
羽空が指で珊瑚を弾く。アルは羽空の言葉に頷きながら、海面の珊瑚は氷水晶で固められているのだと伝えた。
「…なるほどね。じゃあ、下のほうの珊瑚を氷水晶ごと抉り取って外装にしよう」
「…え?」
そんなことをしたら家全体が極寒になってしまう。
羽空は、戸惑うアルの意が分かったのか挑発的に微笑んだ。
「懸念していることは問題ないよ。オレがこの家を何とかする義理はないけれど、セノラがお前に武器を向けたみたいだし?そのお詫びとして手伝ってあげる」
「まあ、木材が手に入るまでの辛抱だと思えばいいさ、アル」
「?はい…」
懸念していることは問題ない…?
聖人は人間とは似て非なる存在だということは理解している。だが、物事の本質をまるまる変えてしまうような、そんな奇跡をも起こせるのだろうか。
アルはじっと羽空を見る。その視線に気づいた羽空は不快そうに顔を歪め「何?黙ってないで珊瑚を運びなよ?手伝わないならこのままだけど?」と吐き捨てるようにそう言った。
*
一時間後。
見た目は歪ではあるが珊瑚と氷水晶で取り繕った家が完成した。ただ重ね合わせただけのそれは思ったよりも頑丈で家の内部は暖かかった。通常では考えられないことだが、完成間近の家に羽空が何かしらしていたことを思い出す。
…何をしていたのかはさっぱり分からないが。
空は暗くなり、丸い月が顔を出す。もうじきオースが帰ってくるだろう。
そういえば、とアルは思い出す。羽空とキララに出会ったあの日も、美しい月の夜だった、と。
「あ、あの…!羽空様!キララ様!」
ポニーと戯れていた羽空とキララがアルを見る。視線が絡み合って、アルはほんの少し下唇を噛んだ。
あの惨劇の夜の礼を言うなら、今しかない。
幸い、他の《絶唱》の聖人たちは、めんどくさいからと地上まで来なかった。羽空とキララとアル、三人で会話が出来るのはこれが最後かもしれない。
脳裏に浮かぶのは、あの夜の光景。思い出すだけでも激しい悲しみと怒りを覚える。アルは大きく深呼吸をすると、頭を勢いよく下げた。
「あの夜、オレを助けてくれてありがとうございました!オレだけじゃなくて、オレの大切な友達を——、ヒスイとサンゴを助けてくれてありがとうございました!ヒスイたちの村の人たちを助けてくれてありがとうございました!」
顔を上げる。羽空とキララは黙ってアルを見つめていた。
「さっき、羽空様が言ってましたけど、お二人はオレを助ける義理なんてなかった。それなのに、羽空様もキララ様もオレたちを助けてくれました。何も出来ないオレを、頼ることしか出来ないオレを、疎ましく思っても仕方がないはずなのに…。オレ、すごく、すごく、嬉しかったっす」
声が震える。
「羽空様の言葉の中に、人間を恨んでいるような嫌悪の気持ちを感じた。でも、どうして人間が嫌いなのかオレにはわかりません。八十年前にあった出来事が原因——なのかもしれないけど、じいちゃんに聞いても話してくれねえし、大陸には本?とかいう昔の記録を記載した書物?なんかもねえし、自分では調べようがなくて…。だから、オレ、知りたいんです。昔のこと、聖人様のこと、羽空様とキララ様のこと」
声どころか指先も震えてきた。
「だから、だから、オレと——、」
唾を呑む。強く目を瞑る。
「友達に、なってください…!」
そう言って、勢いよく右手を差し出した。
ずっと、考えていたことだった。アル自身は聖人のことを何も知らない。知っている者も教えてはくれない。ならば、どうすればいいのか。考えて、考えて、アルの脳内に浮かんだのはヒスイたちの顔だった。相手を知りたいと思うのなら、まずは友達になるべきだ。友達になって、自分を知ってもらって、相手のことを教えてもらう。それが、アルにとっての〝相手を知る方法〟だった。けれど、これは人間の考え方であり、聖人がどう思うのかは分からない。
アルはそっと目を開ける。すると、眼前まで迫っていた羽空のしかめっ面がアルの視界いっぱいに映った。
「ひえ、」
美。美の暴力。太陽と月と、あらゆる星々の輝きを凝縮したような美が目の前にある。
恐怖心からたまらず後退すると、羽空はしかめっ面を崩さずに腕を組んだ。
「嫌だけど」
「え、」
「だから、お前と友達になるとか絶対に嫌なんだけど」
「え、えええええ…」
アル至上最大の告白は盛大に砕け散った。
友達になるために「友達になってほしい」と言葉にしたのは初めてで、勇気が要る発言だった。にもかかわらず、羽空は問答無用で一刀両断。アルは羞恥心で海に飛び込みたくなったが、キララがしっかりと自分の手を掴んでくれたことによって事なきを得た。
差し出したアルの手を握ってくれたキララ。顔を上げると、キララは太陽顔負けの笑顔を浮かべていた。
「オレはいいぜ。友達になろう!」
そう言って、キララはアルと握手を交わす。その笑顔を真正面から受けたアルは、直射日光を浴びたような気分になった。身体が火照る、熱い、でも嬉しい。アルも負けじと笑顔を浮かべると、キララの笑みは更に深くなった。
「正直オレはそんなに人間を憎んでるわけじゃないんだ。当時も、羽空がオレたちを守ってくれてた。だから、オレ自身はあまり人間に関わることもなくて、人間のことはよく知らない。でも、アルに会って、こいつはいいやつだって、信用できるって思ったよ。仲間のために命張れる奴が根っこから悪人だなんてオレ、信じてねえからさ」
「キララ様…」
「アルはオレのこと、優しいって言ってくれたけど、それはオレが人間に恨みを持ってねえからじゃねえかな。人間に憎しみや恨みを抱いてしまうようなことをされて、それでも尚、人間に優しくできるやつが真の優しいやつだと思うぜ?」
キララはそう言って柔らかく笑った。
…キララはそう言うけれど、きっと人間に対して嫌な思いをしていたとしても、それでも自分を救い優しく接してしてくれたのではないかと、アルは思う。
しっかりとキララと握手を交わし、ふと羽空を見る。彼はどこか不満げな顔をしていてアルは小さく笑った。羽空は美しく綺麗だが、今の表情はなんだか可愛らしかった。
「キララ、ちょっと趣味悪いんじゃない」
「そんなことねえよ。アルはいいやつじゃん。羽空もツンデレムーブかましてないで、友達になればいいだろ」
「お断り」
羽空はつい、とそっぽを向く。その顔を見てアルは思った。
先ほどキララが言っていた『真の優しいやつ』というのは羽空のことなのではないか、と。羽空は八十年前の出来事を知っていて、人間のことを憎んでいて、それでも尚、アルを助けてくれた。人間の村を救ってくれた。アルの心臓がじんわりと熱を帯びる。未だ攻防を繰り返す羽空とキララを見つめてアルは笑った。
「オレ!いつか羽空様の友達になれるように頑張ります!」
胸の前で拳を握り、アルも太陽のように笑う。その屈託のない笑顔を見て、羽空は溜息をついた。
「…お前も趣味悪いね」