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静寂の彼岸花

 魚が多く獲れる時間帯は夜明け前である。

 魚介類の交換を生活の一部にしているアルとオースは太陽が昇る前から漁を始める。オースが海に潜り魚を追い込み、アルは追い込まれた魚を檻へと誘導する。

 アルとオースの家は珊瑚と海草、そして家下は氷水晶に囲まれている。魚を追い込む檻とは、氷水晶を削って作った頑丈なものだった。八十年前の異常気象によって海洋生物は巨大化し力も強大になったが、氷水晶の檻であれば逃げられる心配はない。

 ——氷水晶。八十年前には存在しなかった新世界の鉱物であり、名前の通り氷のように冷たい物質。発生場所も起源も不明であり、ある日突然海に現れたらしい。直接触れれば凍傷で壊死してしまうほどの危険鉱物。故に、扱いには最新の注意が必要だ。

 オースから逃げてきた約一メートルほどの魚——おそらく、アジとサヨリ——を檻に誘導しながら、アルはふと明け方の空を見上げた。その透き通るような青紫色は、とある美少年の瞳を思わせる色だ。あの惨劇から数週間。アルは未だに二人の聖人に再会できずにいた。



 漁と朝の支度を終えたアルは、オースに見送られて大陸へと船を漕ぎ始めた。目的は市場。いつもの物々交換である。オースから外出禁止令を言い渡されたアルだったが、驚くことにそれは三日で解除され、今は普段通り大陸と家を行き来できている。

 惨劇から数週間。日常に代わり映えはなく、あれらが全て夢だったのではないかと思えてくるほどだ。

 しかし、アルは知っている。あの惨劇は夢ではない。忘れたくはないし、忘れられない。惨劇のことも、聖人のことも。

 羽空はあの靄のことを呪いだと言っていた。そして、その呪いをもってヒスイたちを殺そうとしたのは聖人だ、とも。

 …人間は昔、聖人に嫌悪されるような何かを犯してしまったのだろうか。八十年前の大災害は天災ではなく人災…?

 知りたいことは沢山ある。しかし、八十年前の大災害の当事者であるオースは、かの天災について語ろうとはしない。疑問をぶつけたことはあるし、この数週間の間も何度か質問を投げかけたが、オースがそれについて口を開くことはなかった。

 新世界の人間であるアルの知識は乏しい。歴史に詳しいムラサキからレクチャーを受けてはいるが、彼女とて全てを知っているわけではない。それに、ムラサキは最近忙しいようで、物々交換に顔を出さない日々が続いていた。


「ん?」


 不意に、アルの視界の端に巨大な岩が映る。

 海面にポコリと浮かぶ小さな岩。太陽光に照らされてつるりと光るその岩はくすんだ白色だった。

 …あんな場所に岩なんてあっただろうか。

 アルは訝し気に岩を凝視する。毎日のようにこの場所を通るがあんな岩は見たことがなかった。


「岩っていうより、魚…いや、あれは鯨か…?」


 目を細めて観察すると、見慣れた海洋生物の皮膚に酷似しているように感じた。アルは更に目を凝らす。僅かに動いているようだ。白色の鯨はとても珍しい。アルも目にするのは初めてだった。


「って、黙って見てる場合じゃねえや。急いで離れねえと」


 鯨は基本的に温厚な生物だ。しかし、その体躯は恐ろしいほどの大きさである。旧時代の鯨も巨大だったそうだが、この時代の鯨は更に大きい。あの体躯で泳ぎ回られては、波に流されて遭難してしまうだろう。

 浮かんだ考えにぶるりと身震いし、アルは急いで船を進めた。

 そんなアルの背中を鯨がじっと見つめていたことには気づかずに。



 市場にはホタルがいた。

 彼の話によると、ヒスイとサンゴは家畜の世話で忙しく、ムラサキは一家総出で湧き水を取りに行っているらしい。確かに、立ち寄った村に友人の姿はなかった。

 ヒスイが市場にいないと知った女性たちは残念そうにしていたが、もったいないからとヒスイに送る予定だった菓子を代わりにプレゼントしてくれた。それらを大切に荷車に保管していると、麦と砂糖を持ったホタルが仏頂面で近づいてきた。


「おー、ホタル。そっちは全部捌けたか?」

「ああ。これで最後だ。交換してくれ」

「おう!助かる!にしても砂糖か…そんな高級品と交換できるもの持ってきてたっけ?あ、女の子から貰った菓子はダメだからな!」

「いらねえよ」


 一蹴するホタルにアルは不満げに唇を尖らせる。

女の子からの手作り菓子は世の男全てが欲しがるアイテムナンバーワン…。それなのにこの男、要らないだと…?

 アルはジト目でホタルを見つめる。しかしホタルはあっけらかんと「だって、それヒスイに作ってきたもんなんだろ?」とアルにとっての爆弾を投げた。


「うるせえ!いいだろ!おら、交換品選びやがれ!」


 ドンッ!とテーブルに手のひらを叩きつけたアル。ホタルはそんなアルを呆れたように見つめると、彼の荷車に麦と砂糖を乗せ交換品を選び始めた。

 ホタルはアルの持参した交換品を吟味しながら、ふと目についた氷水晶に視線を固定した。


「氷水晶か…」


 ホタルの呟きにアルは「ああ、」と声を漏らす。魚が傷まないように、運搬に氷水晶を使用していたのを忘れていた。


「氷水晶?要るならやるよ」

「そんな簡単に言うな。高級品だぞ、それも最上級の」

「いいって。友達だろ?」

「あのなあ…、他の奴らが氷水晶を手に入れるためにどれだけの苦労をしてると思ってる?オレが簡単に貰っちまったらそいつらに悪いだろ。商人と顧客は常に信頼関係が必要だ。友達だからって簡単に渡そうとするな」


 ホタルのその言葉にアルは目を見開く。

 彼の言う通りである。

 一見すると何を考えているか分からない仏頂面の男だが、その実見識が深く、仲間内の誰よりも責任感が強い。アルはそんなホタルのことを尊敬していた。


「そうだな。ホタルの言う通りだ。すげえな、オレそこまで考えてなかったよ」

「オースさんに聞いとけよ」

「じいちゃんのことだから話してくれたと思うけど聞き流してたかも」

「お前が悪い」

「ごもっとも」


 アルの返事にホタルは溜息をつく。それきり彼は何も言わず、干物と塩を取ると去り際にアルの頬を抓った。



 市場での物々交換が終わり、時刻は夕方。

 夕日が海を照らし、世界は紅葉色に染まる。

 ふと空を見上げると、数十匹のトンボがアルを追うように飛んでいた。

 オースいわく、この世界のトンボは旧時代のそれよりも一回り小さいらしい。加えて、頭以外はスケルトンだ。旧時代とは違い、新時代の昆虫類の主食は海水である。八十年前の大災害を生き残るため、海水のみで生きていけるよう進化を遂げたのだろうとオースは言っていた。

 アルの頭上を飛んでいたトンボは急速に下降し、海水に頭を浸ける。おそらく食事をしているのだろう。


「夕焼け小焼けの赤とんぼ——負われてみたのはいつの日か——」

 

 脳裏に過った童謡を歌うと、トンボが僅かに頭をアルに向ける。

 この童謡は八十年以前に歌われていたものらしく、まだ幼かった頃、オースがよく歌ってくれたのを覚えている。

 トンボは食事を終えたのかアルの目線まで飛び上がると、数秒間ホバリングしたのち、遥か上空まで急上昇した。

 それを目で追いながら、ふと、アルは違和感を覚える。

 この世界のトンボは温厚だ。風のように自由気ままに空を飛ぶ。食料が十分にあり身を脅かす外敵も少ない。それが所以だろう。しかし、今しがた遭遇したトンボは急速に空へと飛び立った。まるで、逃げるように。

 その時、アルは気づいた。

 ——海が異常に静かだ。

 この静寂をアルは知っている。嵐の前の静けさ。張り詰めた空気。海の上で生活しているのだ。この緊張感は幾度か味わったことがある。

 こういった時は大抵——。


「っ、うあああああ!」


 アルは盛大な悲鳴をあげた。

 船が傾き、海面が僅かに盛り上がる。それと同時に聞こえたのは、おそらく声。遠吠えのような叫び声のような、そんな音がアルの耳に届いた。

 アルはこの現象を知っている。自宅から海を眺めている際、海面が盛り上がり巨大魚が姿を現すことが度々あった。アルがよく見るのは巨大な海豚だったが、おそらくこれはそれ以上。

アルは必至に船体にしがみつきながら歯を食いしばった。この船は大陸の木を使って作られている。聖人の加護が付与されている大陸の物質を海洋生物は襲わない、はず。

 どこか濁点混じりの声が海中から響き渡る。

 そして、声の主は海面の下からゆったりと現れた。

 くすんだ白色の大きな体躯。顔の一部分だけを海面に出したそれは、大きな瞳でアルを見つめる。あまりの巨大さにアルは背筋を凍らせた。

 ——鯨だ。

 おそらくアルが今朝見た個体。

 この世界の鯨はとても巨大だ。何しろ、大陸から大陸へと繋ぐ道標は、鯨の骨から作られている。その道標は六つの大陸のうち、隣接された大陸を繋ぐものであり、この時代の人間にとって欠かせないものである。アルとオースの家も、この道標——フィッシュボーンロードの傍に建てられている。そして、アルが遭難せずにA1大陸と自宅を行き来できるのも、このフィッシュボーンロードの恩恵だ。この時代に精密機器はない。このフィッシュボーンロードだけが、人間が海で遭難しないための唯一無二の道標だった。

 閑話休題。

 鯨は巨体だが、決して好戦的な種族ではない。今この場に現れた理由は分からないが、むやみやたらと襲ってくることはないだろう。アルは鯨の大きな瞳を見つめると、ほんの少し力を抜いた。


「にしても…なんで鯨がこんなとこに?」


 鯨は珍しい生き物ではないが滅多に海面に姿を現すことはない。実際、アルがこれほど近くで鯨を見たのは、生まれて初めてのことだった。

 鯨は大きな瞳でアルを見つめる。その強烈な視線を受けて、蛇に睨まれた蛙とはこういう気持ちなのかと、アルは心中で呟いた。鯨からそっと視線を逸らす。けれども、鯨はアルの心など露知らず、ゆっくりとアルに近づいてきた。

恐怖故にアルの身体が強張る。しかし、鯨は敵意がないことを示すかのように、船の真横にピタリと身体をくっつけた。


「…?」


 …状況がまるで分からない。

 アルの頭上に疑問符が幾つも浮かぶ。鯨は楽しそうに高い声で鳴いた。


「あ…、あー…、ごめんな、オレ、お前の言ってること分かんねえや」


 困ったように眉尻を下げて笑みを浮かべる。そして、ハッとした。なぜ自分は極自然と鯨に返事をしているのだろう、と。

 鯨はアルの返事にまた鳴き声を上げる。表情は全く変わらないが、どこか悲しんでいるように感じられた。

 そして、鯨はアルを見つめながらゆっくりと海中に戻っていく。完全に鯨の姿が海の中に消えると、海面は一度大きく揺れた。

 

「何だったんだ…」


 海中を見つめながら、アルは疲れたような声を漏らす。

 早鐘を打つ心臓を鎮めようと胸元を撫でると、上空に逃げていたはずのトンボがいつの間にか船の縁で羽を休めていた。

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